λと名前 | Chandler@Berlin

Chandler@Berlin

ベルリン在住

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数学では函数の名前として f とか g などを使っていた.その理由は函数が2つ以上あったときにどちらかを区別することができるからである.また英語という言語では函数を function と言うので函数の名前として f を使うようだ.しかし考えてみるとよほど特殊な函数でない限り,どんな函数でもf:= ...と書いている.f(x):= x だったり,f(x):= x^{2} だったり,f(x):= sin(x) だったりする.

函数が違っても常に f:= ... と書くのであれば,別に f にする必要はない.重要なのは ...の部分であって,f は函数についた荷札のようなものである.荷物を受けとることができれば,荷札は別になんでもかまわない.


政府というものを持っている星にはどこにでも役所があるし,貨幣というものを持っている所では銀行というものがある.そういう所では法律によって人はある程度以上待たなくてはならないことに決まっている.人を待たせずに仕事をしては逮捕されてしまうのだ.あなたの星でもそうかもしれない.多くの星では順番待ちの際に番号を配布するが,函数の名前はそういう番号札程度の意味しかない.

私は名前で呼ばれたいが,順番が早くまわってくるのであれば,「次,何番の方どうそ」でもかまわない.「何番」が何を指しているかということが本質的である.たとえば 10番が私を指しているのであれば,私は 10 番でいいわけだ.「10番さん」どうぞ,でいっこうにかまわない.別に私は 10 番が好きなわけではないし,番号札が10番でなければ受けとらないというわけでもない.だから,「番号」と「私」の間の対応が私には重要であって,番号は 10 番とか 42 番でも 156 番でもかまわない.


名前は二の次であるということを繰り返してきたが,名前と実体間の対応は重要である.名前は対応のためにあると言っても良いだろう.あるものを一まとめにして名前をつけてそれを呼ぶというのは偉大な抽象化の一歩である.

しかしあえて名前を避けることによって本体を明らかにしようというのがλの目的である.無機質で名前のように思えない「λ」を「函数」の意味で使うのはそういうわけである.一方で理解のためには名前ほど重要なものはないのだが,こんなことを言うと..

マービン「矛盾だ.名前はどうでも良いのに重要とは.ああ,気が滅入る.」

対応こそが重要であり,それは名前で決まるので「人間には」名前が重要になるのだが,名前そのものは 10 番とかのような「人間にわかりにくい」ものでもかまわない.わかりにくいだろうか.

コンピュータは,英語ではコンピュータ,日本語では計算機,ドイツ語では
Rechner という名前である.しかし,実際のハードウェアをどう呼ぶかとそのハードウェアの名前という違いがある.1 が英語では one, ドイツ語では Eins,日本語では ichi と呼ばれているが,しかし,それは 1 なのである.「薔薇はどの名で呼ばれようとも甘く香る.」のように,1 を呼ぶ呼びかたは幾通りもあるが,1 という概念そのものの方が本質である.しかし,人間は名前を通じてしか理解しないのでその意味では名前が重要なのである.これを哲学的問題と思う人もいるようだが,scheme のような計算機言語ではlambda とその名前を変数に bindするという機械的な操作を行う.これは機械に可能な手順であって,人生とは何かというような問題のようには難しくないと思う.もちろん良い名前を考えるというのは十分哲学的な難しさがあるとは思う.(ここでは哲学= 難しいもの,というステレオタイプを用いている)