English version
1, 2, 3, という具体的な数を,「数」という名前で抽象化し,それ(「数」)が,全ての具体的な数を含むことが理解できるのは人間のすばらしい能力である.私にとって面白いことに話すことができる能力とこの数を数える能力はどの人でも病気などでない限り可能なようだ.機械には(まだ)それはできない.
人間はこの「抽象化」ということを難なくやってのける.たとえばほとんどの人は椅子という概念を持っている.機械で椅子の写真を探させるのは現在では熱いトピックである.人間は IKEA (2009年時点で有名な家具の会社)のカタログを見て,いろんな形の椅子を椅子と認識できる.そしてどのように使えば良いのかも簡単に判断できる.しかし,椅子という言葉には,無限の可能性の椅子が含まれているのだ.無限の可能性にもかかわらず人間は新しいそれまで存在していなかったデザインの椅子を認識できる.
同様に,λ計算では個々の函数を扱わない.函数全てについて考える.どのような数学的問題が未来に出てくるのかはわからない.しかし,あらゆる函数に関しての理論があれば,未来になっても我々はそれを解くことができるだろう.(ただし函数という概念が十分抽象化されていて多くの問題をカバーできる場合に限る.) 数学は古くならない.足し算についての考えは,少なくとも何千年かは生きのびてきた.おそらく,かなり長い間この考えは正しいものであるだろう.λ計算が無限の種類の函数について考えたり,抽象化などということをするのは,同様のことを期待するからである.私は一度正しかったものは,いつまでたっても正しいような学問が欲しい.なぜなら一度勉強すれば済むからである.多くの学問はそれを目指しているが,実際はなかなか難しい.
数学が無限とか定義とかに拘るのは,今日正しかった足し算が明日間違いにならないことを期待したいからである.数学によっていろいろな技術が発展してきたのを見ると,私にはこれがとても面白い.一度確立したら無限に変化しない学問が,世界を変化させているからである.しかし,これは当然である.技術の進歩は昨日の進歩の上に成り立っている.したがって,その基礎が毎日変化しては困る.技術自体が毎日変化してもかまわない.その基礎がゆるぎのないものでさえあれば良い.基礎がゆるがないものであるから,その上に変化を積み重ねられるのだ.