自分の傷ついた気持ちから
相手に言葉を投げかけると
相手もすごく傷つきます。
そんな
イライラ自暴自棄シリーズを
前回から2回に渡って投稿しています。
前回の記事の
要点をまとめると
感情の根底:
イライラや怒りは、傷ついた感情から生まれ、それを癒すことが重要。
共有の難しさ:
イライラの元となる感情を相手に伝えるのは難しいですが、共有できれば気持ちは軽くなることも。
イライラの構造:
相手に対する怒りは、自分の観念と現実のギャップが原因であることが多いです。
相手への配慮:
傷ついた感情を相手に伝える際は、相手を傷つけるリスクがあることを理解する必要があります。
行動の選択:
感情を発散する前に、自分が本当に望む関係性や世界を意識し、その上で行動を選択することが大切です。
詳しくはこちら↓
これらの記事を投稿する前に、
たまたまコースを受講中の方から
”他者のイラつきから放たれた言葉に傷ついた”
という体験からの
気づきをメッセージ下さいました。
そのメッセージが
私がイライラシリーズで
書きたかったことを
端的に書いてくださっていたので
皆さんにもシェアしますね。
(他者のイラつきから放たれた言葉に傷ついた体験を通して)
自分が(註:一方的な相手からの言葉を)受けて、
自分が不当な扱い受けたと感じたり、不快だったり、怒ったりした時に、
その感情を正しいものとして
相手に真っ直ぐぶつけると
受ける側って
ものすごく重くて刺さるんだなって。
多分言っている本人は、
相手の間違い正す、
間違いの指摘をしてるって意図でやっているけれど
相手を思いやった
コミュニケーションではないって言う
エイチさんがいつも指摘されておることだなって。
「在り方」とか「十分でいる」って本当に大事だなって思いました。
不十分だとコミュニケーションの中で
過剰反応になって相手を傷つけるんだなって。
全く同じシチュエーションではないけれど、
今回私にきつい言葉を放った人と、
私が長年付き合った彼にぶつけていた
言葉や感情のベクトルは同類のものだったなって
彼ずっと痛かっただろうなって。
本当にシェアありがとうございました。
このシェアの中で
最も大切な点は
「在り方」とか「十分でいる」って本当に大事だなって思いました。
不十分だとコミュニケーションの中で
過剰反応になって相手を傷つけるんだなって。
この3行に尽きます。
自分が十分な時、
相手が自分の観念(期待)から
外れた振る舞いをしていても
許しておいてあげることもできます。
“自分自身は十分”ですから
当然ですが”犠牲感”はありません。
または、
取り立てて騒がず
静かに去るだけでしょうね。
不十分な時は、
心が既に何かで
欠けているところに
思い通りにならずに
更に不十分になりますから
つい相手を使って贖(あがな)う
ということをしがちになります。
相手を使ってスカッとしたい
という心境に近いかな。
- どちらが正しいか知らしめたり
- 同じだけ傷つけてみたり
- 相手を正しさでコントロールしようとしたり
自分の不十分さを相手から奪って
満たさないといられない感じ。
要するに
正しいこと相手に言って
水戸黄門できたらスッキリする
そんな感覚もちょっと
不十分な感じですよね。
水戸黄門は勧善懲悪の
分かりやすい世界を描いていますから
それで良いのでしょうが、
現実はそんな単純ではなくて
良い悪いで決めつけられる
世界ではありません。
良いか悪いかを決めつけて
断罪できて初めてスッキリできる
そういう心は何か
不十分だと言えそうです。
そんな振る舞いをしない
自分で在るためには
普段から自分を
不十分にしておかない
ということが大切です。
自分を十分にすること
については
下記の記事を読んでみてくださいね^^
さてさて次回こそ
イライラ自暴自棄シリーズの
最後の記事になりますが
イライラをもたらすのは
観念だけではない
という視点を変えたシェアになります✨
ちょっと視点を変えた
自分を十分にする話とも言えます^^