一枚のカードが、その時々で色んなことを語る。
語るというか、まぁ語っているのは私自身なんだけどね。
カードに描かれたものが、その時の自分の状態や状況で色んな光景に見えて、それをひとつずつ言葉にして行くって言うのかな?
毎回書くようだけど、セルフセラピーカードのセッションでは、そういうことをする。
言葉にならない、出来ないようなものもある中で、でもそれを敢えて言葉で表そうと、そして相手に伝えようとするのなら?と、そんなことを深々と考える時間でもある。
自分の持つ語彙の引き出しの全てを開けてかき回して探して探して、それでもなお見つからない時もある。
もどかしさを感じることもある。
それでも最後に残るのは、気づきとか発見とか(ん?同じ?)腑に落ちる感覚。
涙の後の爽快感なんかもあるかもしれない。
どんより曇天に風が吹いて、雲の切間から一筋の光が差し込むような、そんな場面を感じることもある。
わかってもらえない、理解されないと言うことを痛いほど知っている私の中から「それでも伝えよう、分かってもらおう」とする私が登場し、色んなことを語る。
どこか遠くからそれを眺めている自分というのも、不思議なことに同時に存在している。
「ちゃんと」という言葉を自分が連発していたことも、言われて初めて気づく。
そんなに言ったかな?言ってたんだろな。
やるべき事をちゃんとやる
という、もっともらしい事を正義の盾かのように自分の前に立てて、その背後に隠れてるうずくまった自分。
薄っぺらな正義の盾
ちょっと強い風でも吹こうものなら、それはこちらに倒れて私を攻撃し傷つけるのだろうと容易に想像がつくような、そんな盾だ。
こんなことを書いているのは、ほんの数時間前に練習会でカードを眺めた時と、今と、少し感じ方が違うから。
このカードを見たとき私は、描かれているもの全てが、自分だと感じた。
「ちゃんとやった方が良いであろうこと」を、ちゃんとやる
だから、自分のやりたいことは後回しになったり、考えないことにしたり、見なかったことにするのは仕方のないこと。
どこかそんな風に、逃げていた私がいたと思う。
実際の生活を見れば、一体何をちゃんとやってるって言うんですか?ってくらい家の中が荒れていたりもすれば、買い飯で済ます日も結構あるし、ちゃんとしていることなんて何一つないと言い切れる。
って何の自慢だよ笑
やらなきゃならないことをちゃんとやって初めて、自分の時間が来るんだ、なんて思ってたら、そんな時間は一生来ないわけで。
とか考えてたら気付いた。
「私、ちゃんとするの嫌なんだな」と。
だってさ、ちゃんとするのってメンドクサイじゃん?しょーじき。
やらないと回らない・成り立たないようなことを、大体で済ませているくせに「ちゃんと、ちゃんと」って…一体どの口が言ってんだか
おかしくなってくる。
一番普段の私のことをよく見ている家族が「ほんっと母ちゃんってテキトーだよね」と口をそろえて言うってのに。
ちゃんとしなきゃ、と思うだけで、実際何もちゃんとしてないし、だからって困ってもいないのに。
っていうか、そもそも「ちゃんと」って何だ?笑
どういうのを「ちゃんと」って言うんだ?
それすらも、自分の中で明確ではないってことに今更気付く。
とはいえ、そこにこだわっていたのは、「自分がやりたいこと」よりも分かりやすいものだったから、なのかもしれない。
漠然とハッキリしない自分の望みや願いよりも、何となくでも分かる「ちゃんとやった方が良いであろうこと」をやっていた方が「ちゃんとして見える」から、だったのかもしれない。
と、あれこれ分析してみたりする帰宅後のこんな時間もまた、セルフセッションのようで興味深いものだったりする。
今日わかったことってのは結構大きくて、それは2枚目3枚目のカードで更に深く掘り下げて理解したこともあって、漠然としていたものが輪郭くらい見えるようになった感じがしている。
あ、私、だからそういうことがしたいのか!
という、原点に回帰するような、そんな感覚が心地いい。
カラーカードを裏返して1枚だけ引いてみたら、まさかのレッド。
滅多に引かない赤。
生命力に満ちた色は、自分が生き返ったかのような気さえする。
どうせ「ちゃんと」するなら、どうしても「ちゃんと」したいなら、「ちゃんと自分を生きよう」なんて思った日でもあった。
今日という日に感謝。
今日の全てに感謝。
今日までの全てに感謝。