春の選抜に続いて、夏の甲子園が中止。あと少し緊急事態宣言解除まで結論を待って、開催する工夫を考えて欲しかったが、各県大会への準備を考えると今がギリギリなのかもしれない。

高校三年生にとっては練習の成果を発揮することなく、最後の夏を終えてしまうことは耐え難い悔しさだと思う。

これからの人生において、報われない努力や理不尽なことはたくさん経験するはず。今の悔しさを胸に秘めて、打たれ強い男になってもらいたい。

 

私にも高校野球には苦い出来事があり、今から40年前のことを思い出した。

このまま還暦を過ぎると忘れてしまいそうなので、ブログに残しておこうと思う。

 

小中高と野球部だった。高校は父の仕事の都合で新潟だった。家から高校まで毎日往復2時間の自転車通学で放課後の練習と朝練をこなし、今考えれば良く頑張っていたなと思う。

高校2年の秋、その日は雨が降っていて、電車で学校まで通うことになったのだが、車内で他校の不良学生5人に絡まれた。私は坊主頭だったので、「お前、野球部だろう。手出してみろ。」というようなことを言われた。当時も不祥事は即出場停止処分という風潮だったので、絶対手は出せなかった。ひたすらに我慢した。しかし、繰り返ししつこく絡まれ、その理不尽さについ手を出してしまった。その様子は他の乗客から学校へ通報があり、私はすぐに職員室に呼ばれた。

無期停学処分を告げられた。

その後、高野連から野球部の半年間出場停止が決まり、NHKの全国ニュースで知ることとなった。

学校からはそのまま自主退学をと勧められたが、両親が様々な教育関係者に相談してくれて復学するチャンスを探ってくれた。

今と同じで将来どうなるかわからない状態で長期間を自宅で過ごした。

一生懸命練習してきた野球部の仲間たちとも会えず、春の北信越大会も出場できないことが決定した。

学校からは毎日ノートに反省文を書くことを強いられて、だんだん自己嫌悪が酷くなり、他部員への申し訳なさから、このまま生きていてはならないと考えた。高野連や学校に対して連帯責任への不満があり、そのことを遺書に書いた。

しかし、両親が粘り強く説得してくれて思い留まったり、急に反対の気持になったりを繰り返した。

毎日なにもせず、布団を被って寝込んでいた。


それからしばらくして、野球部の監督から電話があり「野球部の正式な練習には参加できないけど、自主的な朝練だけなら参加して良い。」と連絡が来た。野球部の仲間と監督が、学校側に何度も粘り強くお願いし、説得してくれたそうだ。嬉しくて泣くしかなかった。

私は毎朝、自転車で学校に行って、朝練が終わったら家に帰った。それでも嬉しくて仕方がなかった。

そういう姿を学校側も認めてくれて、初夏の頃に復学できることになった。

しかし、野球部を出場停止にした罪は重く、後援会の一部から野球部復帰に反対意見があったり、先生の中には深く傷つく言葉を投げかける人もいたり、同級生からも「あいつは...。」と後ろ指を指されたり。でも、復学に向けて応援してくれた人達の気持ちにだけは報いたいと思った。

高校三年生夏の大会には、出場停止処分も解けて、参加できることに決まった。

私は出れなくても、ベンチで応援できたら幸せだと思った。

しかし、チームメートの要望もあり、監督はレギュラーポジションの「一番センター」で使ってくれた。

今でもその第一打席での感触は手が覚えているような気がする。(私は当時使用が始まった金属バットが好きになれず、拘って木製バットを使っていた。)

ショートの横を抜いてセンター前へのクリーンヒットだった。その日は3安打を打つことができた。

結局、最後の夏は3回戦で敗退したはずだが、良く覚えていない。

この復帰した試合があまりにも自分にとって大きな意味を持つものだったから。


自分がやった暴力は、どういう言い訳をしてもやってはいけないことで、報いを受けることは当然。背負いきれないほどの痛みを受けて当然。

しかし、この出来事で様々なことを学ぶことができた。

溺れている人間に浮輪を投げる人もいれば、見ないふりをする人もいて、更には下から足を引っ張る人もいた。

私は溺れた人には、絶対手を出す人になりたいと思った。そこだけは忘れないようにしたい。


甲子園が始まるとテレビを観ることが辛くなって、なるべくチャンネルを回してしまう。

高校時代は楽しかった思い出が何もなく、周りに迷惑をかけた思い出しか残っていない。

人の言葉にデリケートになりがちで、他人とうまく付き合うことができない自分はあの時に作られたものかもしれない。