腑に落ちた | toi♪toi♪toi

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Flute永野伶実の日記

続くと言いながら続きを書いてませんでした。

ここ数カ月で腑に落ちたことのお話です。

 

ずっと前からなのですが、

古楽器での演奏に対して、

「その演奏は楽器を持ち替えただけ」という批評をよく聞くことがあります。

ずっとなんだか違和感を感じていたんですよね。

でも何がそんなにモヤモヤするのか上手く説明できず。

 

テレマンのトラに呼んでいただいているうちにやっとスッキリしました。

リハーサルでよく言われることのひとつに、

モダンで演奏するから、とか、

古楽器で演奏するから、とか、

楽器がどうとかではなく、

もはやどの楽器を使うにしてもバロックのアプローチで演奏しないといけない時代に来ている、ということがあります。

 

確かにモダンと古楽器では指使いや息の使い方といった、

楽器を鳴らすための奏法は全く異なります。

そういったテクニック的な点に対してなら、

楽器を持ち替えただけでちゃんと鳴らせてないよ、という意味でまだ分かるんです。

でもそれが表現に対して言っている言葉の場合、

もはやモダンで演奏するからバロックの演奏習慣を考えなくて良いわけじゃないと思うのです。

持ち替えただけって、持ち替える前の演奏はどうでもいいわけじゃないですしね。

 

その演奏はバロックのアプローチとしてふさわしくない、という表現な分かります。

でもそれを「楽器を持ち替えただけ」と表現するなら、

その言葉自体が、

楽器を持ち替えることがとても特別なことで、

そこにモダンと古楽器の演奏の大きな隔たりを表現しているように感じてならないのです。

 

これだけ古楽器の演奏が浸透してきている現在、

作品の時代背景に応じて楽器を持ち替えることはもう特別なことではありません。

私はどの楽器を使うかというのも表現のひとつだと考えています。

古楽器で演奏するということは、バロックや古典へのアプローチであり、

作曲家がイメージしていた音を追い求めるひとつの手段です。

 

あくまで私自身の意見ではありますが、

自分の中でスッキリできて良かったなと思っています。