アントニオ猪木vsモハメッド・アリ「格闘技世界一決定戦50周年記念展」@新宿京王プラザホテルに行ってきましたぁ〜٩( ᐛ )و‼︎
猪木vsアリ戦調印式会場でアリが宿泊した京王プラザホテル
今回の展示会の会場である新宿・京王プラザホテルは、今から半世紀前の1976年6月26日に開催された、あの世紀の一戦「猪木vsアリ」戦の調印式がおこなわれた歴史的な場所です。
猪木がアリ側の強引なルール変更を公言しアリは激昂
当時、プロボクシング界においてバリバリの現役世界ヘビー級チャンピオンだったモハメッド・アリが、日本人プロレスラーとの異種格闘技戦のリングにわざわざ海を越えてやってくるなど、猪木のビッグマウスと当初は誰も信じませんでした。しかも、アリ側もこの興行はあくまでテレビ向けのエキシビジョンマッチ、ラスベガスなどで開催される余興のような筋書きのあるショープロレスのつもりで日本に乗り込んできました。
ところが試合開催前に予定されていたさまざまなセレモニーを通じてアリ側も、猪木サイドの空気感や日本国内での盛り上がりの温度感の違いに気づきます。プロレスの多彩な技を駆使して世界最強のボクシングと闘う異種格闘技戦を見せたい猪木サイドと、プロボクシング世界ヘビー級チャンピオンという称号に傷をつけるわけにいかないアリサイドとの間でルールの擦り合わせは難航。アリ側は要求するルールを飲まなければ体調不良を理由にアリをこのまま帰国させると迫りました。
相撲やボクシングに比べて明らかに世間に認められないプロレスというジャンル。プロレスの強さを世間に認めさせ、プロレスの市民権を獲得したいというのが長年の猪木の悲願でした。当時、国内最大の屋内アリーナだった「日本武道館」のリングサイドプレミアム席も含めチケットは既に完売。テレビ放映でも大々的に取り上げられ、このタイミングで世紀の大試合を中止するなどできるはずもありません。関節技、絞め技、スタンディングポジションからの蹴り技すべて禁止というアリ側のルールをすべて承諾した猪木は、マットに寝そべる姿勢からしか攻撃できませんでした。
試合は互いの間合いと駆け引きばかりに終始し、決定的な技の応酬はほんのわずかで両者とも決め手に欠け、その結果15ラウンドフルに戦った末の引き分け。そして、試合後に残ったのはアリへの法外なファイトマネーによる猪木の莫大な借金と、試合時間の大半をマットに寝転んでいた猪木への謗り、そして〝世紀の凡戦〟という屈辱的な酷評だけでした。
ボクシングとプロレスという互いのバックボーン、それぞれの格闘技界を背負ってリングに立ち、ある意味命懸けで戦った両雄。試合から数年後の再会の際には、猪木もアリも『あの時は心底怖かった』と当時の心情を吐露、互いの立場に敬意を表し称え合ったのでした。そんな二人はいつしか同じ修羅場を戦った戦友として生涯の友となり、アリは友情の証として自身のテーマ曲「ALI BOM-BA-YE」を猪木へ贈りました。こうして生まれたのが、猪木がその後生涯にわたってテーマ曲とした「INOKI BOM-BA-YE」でした。
パーキンソン病をおして猪木の引退試合に駆けつけたアリ
令和時代のプロレスの入場シーンには、音楽のみならずレーザー光線やドライアイス砲、爆音や火炎などとても華やかで迫力ある演出が施されます。かつての昭和プロレス時代の入場シーンと言えば、放映テレビ局のスポーツ番組専用の行進曲というシンプルなものでした。そこに「INOKI BOM-BA-YE」というオリジナル楽曲を持ち込み風穴を開け、その後の各選手オリジナルテーマ曲で入場するというスタイルの先鞭をつけたのも、この〝伝説の一戦〟を実現させたアントニオ猪木その人でした。この猪木流プロレスのエンタメ化はその後猪木の盟友ハルク・ホーガンによって本番アメリカに逆輸入され、アメリカのプロレスは単なるショーマンシップから進化を遂げました。
この格闘技世界一決定戦が契機となり、その後日本のプロレス界は一気に異種格闘技路線へと舵を切り、後の時代の総合格闘技全盛期へと繋がります。猪木はミュンヘン五輪柔道の金メダリスト・ウイリエム・ルスカを皮切りに、キックボクサーで空手家のモンスターマン、そして極真空手の〝熊殺し〟ウィリー・ウィリアムス戦まで…アリ戦のルール交渉に比べれば遥かに容易い交渉を重ねながら、数々の異種格闘技戦を成功させたのでした。

〝世紀の凡戦〟と揶揄された猪木vsアリ戦は、半世紀の時を超え、令和のネット世代には〝伝説の名勝負〟と理解されるようになりました。観客も業界もマスコミもメディアも、50年の時を経て成熟したのでしょう。私たち〝燃える闘魂〟の伝承者・猪木信者たちは、とっくの昔からこれが真実の格闘技だったことを信じていましたが…















