先日、東京にて伊藤詩織監督の『ブラックボックス・ダイアリーズ』を鑑賞しました。

 

私はDV未然防止教育をしている立場であり、映画の評論家ではありません。

ただ、ジェンダーに基づく暴力の現場を知っている一人として、この映画を観て心に残ったことを書いておこうと思います。

 

被害そのものだけでなく、被害を訴えたあとに続く「理解されなさ」や「信じてもらえなさ」こそが、人を深く傷つけ、孤立させていくという現実に、強い共感を覚えました。

被害を受け、そのことを言葉にしようとした時点で、すでに口をふさがれてしまうことがあります。

 

起きた事実を可視化し、証拠として示さなければ認めてもらえない。

しかし、可視化されようがされまいが、被害を受けた側の人生には、確かに大きな影響が起き続けています。

それでもなお、暴力を証明しようとしても他者からの協力を得ることは容易ではなく、周囲がその暴力を容認してしまう場面も少なくありません。

 

権力や支配によって被害が起き、

その構造の中で暴力が容認されていく。

 

その結果、被害は「なかったこと」にされ、加害は容認され、加害者は変わらずに生きていくことができる。

 

一方で、被害者が説明し、証明し、耐え続ける責任を負わされていきます。

 

こうした現実が、この映画の中で可視化されており、

それは私自身がこれまで現場で見てきたものと、一致していました。

 

詩織さんは被害にあってから、すでに10年が経過しています。

私自身も、幼少期に面前DVを経験してから20年以上が経ちました。

もちろん、人によってはそれ以上の月日が必要になってしまうこともあります。

 

それだけ、被害者は被害と長い時間をかけて向き合い続けている。

そういう現実があります。

 

暴力を語るうえで、その背景にある権力や力関係を無視することはできません。

私が子どもたちにデートDV防止教育を行う中で、

「暴力」そのものだけでなく、

その本質である「力と支配」を伝えているのは、まさにそのためです。

 

また、先日大分で伊藤詩織さんご本人にお会いし、お話をする機会がありました。

私にとって詩織さんは、これまで「テレビの奥にいる人」でした。

けれど実際にお会いして感じたのは、

たった一人の若者が性暴力にあった。

混乱し恐怖を感じ、しかし勇気を出して被害を訴えても、

これらが社会で「よくあること」として扱われてしまい、口をふさがれ、被害と被害を受けた人の尊厳が軽視されている現実を知った一人の当事者が、

同じ被害を繰り返させないために、被害の影響を受けながらも、自分にできる方法で社会に訴え続けている、ということでした。

そこにあったのは、ただただ純粋な思いでした。

私自身も、大切な人が加害者にも被害者にも、そして傍観者にもなってほしくない。

その一心で、デートDVやDVの防止教育を続けています。

ただその思いで声を上げた人や行動した人に対して、勝手な憶測や決めつけが飛び交うとしたら…

それは、とても怖いことだと感じています。

こうして被害者に焦点が当たっている今でも、多くの加害は容認され続け、

力と支配によって被害が連鎖し続けているという事実があります。

そのことを、心にとめておきたいと思います。