皇帝ペンギンやサケの親の愛、犠牲の愛は、もともと神に起源があるものであり、そうした姿を通して人間は愛を学ぶことができる。

 

皇帝ペンギンは、そのように過酷な環境で卵を抱いて育てる愛をもっているから、皇帝ペンギンらしいのである。その愛の価値を無視して「ざんねんな生き方」ときめつけるのは、本当にひどい考え方だ。

 

わたしたちも、ちょっと見かけだけで、「変な奴だ」「おかしな人だ」とか決めつけられたら嫌になる。動物も同じだ。

 

 

日本は猫ブームだが、猫を虐待したり、毒殺したりする事件も結構起きている。そういう虐待者にとって猫のかわいらしさ、愛らしさなどまったく目に入らないのである。

 

人間は心と体、両方でその人の個性になっている。しかし、人間の価値ということを考えたとき、やはり、心が重要だ。イエス様がそうであったように、たとえ、みすぼらしいような姿であったとしても、人のために犠牲になり、奉仕する姿には誰しも心を打たれる。

 

動物にも体と、人間の心に相当する部分がある。動物を表面だけで見て、愛を無視するなら、それは動物の価値を本当に下げることになる。動物たちも嘆き悲しむだろう。

  

皇帝ペンギンの雄はなぜあのような過酷な環境でも卵を抱き続けることができるのだろうか?それは愛ゆえだ。愛がなければ逃げてしまいたくなるような環境だが、「子供のために」という愛があるから乗り越えることができるのである。

 

皇帝ペンギンの犠牲の愛を見て「お前たち、本当にすごいな。愛を教えてくれてありがとう。私もそんな愛に学びたい」などと思って、その愛の価値を認めてあげることが大切ではないかと思う。また、皇帝ペンギンなどの愛についての対話が親子や教室でなされれば、よい愛の教育になるだろう。

 

科学技術の発達によって恩恵を受けている反面、大量生産大量消費のために地球環境は破壊が進み、温暖化などの影響で各地で災害が起きるなど大変なことになっている。動物、植物、神によってつくられた万物が悲鳴を上げているのである。

 

今こそ、以下の有名な聖句の意味合いを考え、悟るべきときではないか。

 

「被造物は、実に、切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでいる。なぜなら、被造物が虚無に服したのは、自分の意志によるのではなく、服従させたかたによるのであり、かつ、被造物自身にも、滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る望みが残されているからである。実に、被造物全体が、今に至るまで、共にうめき共に産みの苦しみを続けていることを、わたしたちは知っている。」(ローマ人への手紙8章1921

 

ひたすら欲望を追求する物質主義の根底には、進化論を軸とする唯物論的価値観が根を張っている。進化論に基づいて、動物の愛の価値を無視して、「ざんねんな生き方」などと決めつけるのは、動物虐待も同然ではないか。動物愛護団体の方、動物をこよなく愛する方々には考えていただきたい。

 

 

にほんブログ村 哲学・思想ブログへ
にほんブログ村