先回、キリスト教の主要福音派の考え方について考察したが、今回はローマ・カトリックと英国国教会の進化論に対する立場について考えたい。
まず、カトリックだが、ウィキペディアにはこのようにまとめられている。
カトリック教会では1996年10月にローマ教皇ヨハネ・パウロ2世が、「進化論は仮説以上のもので、肉体の進化論は認めるが、人間の魂は神に創造されたもの」だと述べた。つまり、人間の精神活動の源泉たる魂の出現は、進化論的過程とは関係ないとする限定つきで、進化論をキリスト教と矛盾しないものと認めた。1950年の回勅「フマニ・ゲネリス」(en:Humani generis)でも、生物としての肉体の起源の研究である限りは許容されているが、この回勅の時点では、進化論は未証明の学説とされ否定的に扱われており、進化論を既に実証されたものとして扱う立場が批判されている[9][10]。1958年に刊行されたフランシスコ会訳『創世記』の解説では、進化論が誤りであることが明らかになった、という記述がなされている[11]。その後ヨハネ・パウロ2世の次の教皇ベネディクト16世は「進化論は全ての問いに答えていない」と否定的な認識を示した。しかしさらに次の教皇フランシスコは「神は、自然の法則に従って進化するように生物を創造した」と進化論は創造論と矛盾しない見解を示した[12]。
今度は英国国教会だが、2008年9月、ダーウィンに対して謝罪している。
https://srad.jp/story/08/09/19/1116205/
これでは神があまりにもかわいそうではないか!
神は途方もない時間をかけてエネルギーを投入してこの宇宙、地球環境を人間のために備え、そして最後に人間を生み出してくださった。ここに人間を慕われる愛がどれだけ隠れているだろうか。人間始祖が堕落して神から離れた後も歴史を通して訪ねて来られた親である。その心情の世界は聖書の放蕩息子の話によく表現されている。
神のゴールは何か。人間の親子が一緒に会話して喜ぶのと同じように神は私達と一緒に生き一緒に喜びたい。神はいつも私達一人ひとりと共にいて愛を注いでいるが、私達人間がその愛、その神の息吹に気づかないだけである。
私達は神にどんなに不満を言ってきただろうか。なんでこんな親、こんな境遇に生まれたのか。今のこの環境は嫌だ。この人たちは嫌いだとか、、、。
しかし、振り返ってみれば、「私」がどんなに不満をもち、どんなに汚い心でいても親は変わらない心で、「私」を捨てたり、あきらめたりしない。心が汚いからと言って審判されることはなく、毎日、心臓は動き続け、生かしていただいているのである。そして「私」を信じて、放蕩息子の親のような心情で待ち続けている。
聖書の創世記の「生めよ」はまず、神の愛を求め、探して、感動しながら、愛が成長することが神の願いだということを意味している。そのために必要なみ言がイエス様の言われた第一、第二の戒めである。
「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ。』これがいちばん大切な、第一のいましめである。
第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ。』
これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている。」(マタイ22:37-40)
心を込めて命を投入して命をかけて神を愛しなさいという意味だ。そのような子供にさらにもっと愛を注ぎたいのが親なのである。
神は愛であり、愛がなければ神はわからない。感じることができない。
こういう点からローマ・カトリックと英国国教会の指導者の姿勢は神の前にどうだろうか?礼拝などで神様を愛し、賛美したり尊んでいる素振りを見せながら、一方では、神を否定する進化論を受け入れている。これは例えていえば、朝、笑顔で夫を送り出したあと、別の男を家に招きいれている不倫の女と同じではないだろうか。
イエス様の時代以降、2000年間、キリスト教を導いてきた神、毎日「私」を心配し、愛を注ぎ、恵みを与え、導いてくださる親である神は裏切られているのであり、あまりにもかわいそうではないか?
純粋に神を信じ愛しているカトリック、英国国教会の信者の方は多いだろう。神の愛と真反対の進化論という思想を両教会指導部が受容していることについてお聞きしたい。
「私達の親である神様はどう感じていると思いますか?」
「このままで青少年たちを正しく導くことができますか?」
