「群盲、象を評す」ということわざがある。複数の目の見えない人が、象を触った情報だけで象の姿全体を語る、という意味である。

 

 進化論者は、生物が高度化して人間の登場までの過程で、愛という重要な点を無視し、そぎ落としてみているのである。

 

 進化論者は科学に愛など持ち込むべきではないと言うかもしれない。

 

しかし、人間や生物を考えるとき愛を抜きにして語ることはできない。物質的な見方だけで見るのは、「複数の目の見えない人が、象を触った情報だけで象の姿全体を語る」のと同じである。

 

前回まで科学的なアプローチによって、段階的創造において「知的存在」が各段階で雄、雌を通したエネルギーの投入によってDNAを書き換え、新しい生物の雄、雌がつくられたという、ところまで導き出した。「知的存在」が構想、計画、目的をもって段階的創造をしたということである。では、どんな構想、計画、目的なのか?これらの答えに迫るには、すべてを物質とエネルギーだけでとらえる従来の科学の枠組みを超える必要がある。科学と宗教の壁を超える視点が必要なのである。

 

 

すべての生物は、雄、雌のペアが愛の関係をもって繁殖するようになっている。そして生物は下等なら下等なりに、愛の関係がある。例えば、セミの雄があれだけの鳴き声を上げるのは雌を呼ぶためだ。愛のためである。

 

ウグイスの雄が「ホーホケキョ」と美しい声で鳴くのは、雌を呼ぶためである。

クジャクの雄が見事な羽を広げてアピールするのも雌への愛の表現である。

 

 また、前の記事で取りあげた皇帝ペンギンやサケのペアによる子供のために犠牲になる愛は、とても感動的なものだ。

 

 では動物と人間の違いは何か。皇帝ペンギンは親から育てられ、成長すると相手を見つけ、また、親と同じような愛を子供に注ぐ。本能的に雄、雌の愛、親子の愛を知っている。

 

人間は本能的に愛を知るようにはなっていない。親から最初に愛を受けるが自然、人間関係、また歴史などを通して愛を学ぶ。愛において成長すると、他のために命を投入し犠牲にできる愛をもてるということである。2000年前にはイエス・キリストがその愛を示され、

人類をどんな犠牲を払っても愛される神の愛というものに、イエス様を通して人類は初めて出会ったのである。イエス様の弟子たちを大迫害していたパウロもイエス様の愛に胸打たれ、大転換して命がけの宣教をしていったことが聖書の使徒行伝に描かれている。

 

 日本では東日本大震災のとき、防災無線で住民に避難を呼び掛け続け、津波の犠牲になった宮城県南三陸町職員遠藤未希さん(24)の話を思い出す。自分のことよりも皆のことを心配したこの女性の心、犠牲の愛に多くの人が胸を打たれた。

 

memory.ever.jp/tsunami/higeki_bosai-tyosya_miki.html

 

 韓国では客船セウォル号沈没事故で、若い女性乗務員パク・ チヨンさん(22)が最後まで船に残って学生たちの避難を助け続け命を落とすということがあった。この女性の勇気と自己犠牲の愛に世界は感動した。

 

人間がチンパンジーなど類人猿と違うのは、知性のレベルはもちろんだが、相手のために生き、犠牲になる愛である。人間は歴史を通してそのような愛を現わしてきたし、私たちすべての人間もそのような愛をもてる潜在力をもっているということなのである。このような愛の起源を進化論はまったく説明できない。

 

進化論者は分子などから最初の生命が生まれ、それが偶然の過程で段々と高等な生物へ、最終的に人間が登場。その過程で心も愛も出てきたと無理な説明をする。

 

進化論が言う進化の原動力は生存闘争。生物は自分が生き残るために闘争してきたと言っており、そこから相手のために犠牲なる愛が生まれるはずはないからである。

 

したがって、進化論者が言うように物質から命が生まれ、命から愛が生まれたのではなく、愛が先である。

 

愛のコンセプトが先にあって雄、雌のペアが生まれたのである。皇帝ペンギンであれば、体を形作るためのDNAの情報のみならず、皇帝ペンギンの雄、雌の愛、子供に対する愛などの愛の概念、構想が先にあったということである。

 

聖書では神は愛であると説き、イエス様は神を父と呼んだ。神は親なる愛の神なのである。つまり、親なる神が人間を含む各生物の雄、雌の愛のコンセプトを構想し、それに基づいて愛とエネルギーを投入して段階的創造を展開した。これが科学的視点、宗教的視点からの合理的な推察である。

 

では、親なる神は人間を土からいきなり現れるようにしたのではなく、なぜ、このような段階的創造を通して現れるようにしたのであろうか?次回考えてみたい。

 

 


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