全知全能の神なら確かに土からいきなり人間の体を創造することができるだろう。

 

しかし、映画『天地創造』のように、成人の体のアダムがいきなり創造されるとすると、それに相応の、成人の心をもって創造されたということになる。

 

だが、アダムとエバの子孫は例外なく赤ちゃんとして生まれ、体も心も年月をかけて成長するようになっている。体は栄養を摂って成長するが、心はただ放っておいて成長するものではない。まず親からの愛を受け、また自然を通して愛を感じ、次に親以外の人からも愛を感じて成長していく。つまり、愛によって心は成長していくのが原則だ。

 

ならば、人間始祖も同じ原則に従わないとおか

しい。愛も受けないで愛が成長し、いきなり成人の心をもったアダムができるというのは、愛の原則に反していると言える。

 

もし成人の心を、愛をもったアダムを創造されたのなら、子孫だって赤ちゃんから苦労して育てる必要はなく、同じように神が創造すればいいはず。親が赤ちゃんに無限の愛を注いで育てるというプロセスは必要ない。

 

なぜ親が赤ちゃんに愛を注いで成長するようになっているのか?それは愛というものが神でさえも自由につくったりすることができないものだからではないか。

 

結論的に言えば、段階的創造の最後に、人間にもっとも近い体をもった両親からアダムとエバが赤ちゃんとして生まれるようにしたのは、生まれた後にアダムとエバが神の愛を受けて愛を成熟させていく、つまり、人間が神の愛に似た「与える愛」をもつことができるようにするためだったのだ。創世記の「生めよ、殖えよ、地に満ちよ」の「生めよ」というのは、そのような意味が込められているのである。

 

言い換えれば、段階的創造の最後に人間が赤ちゃんとして生まれ、大人までの成長期間がなければ、人間が神の子供として神の愛に似た愛をもつことは決してできないのである。

 

 

アダムとエバは、人間に近い体をもつ親の胎から出てきたが、DNAが改変されているので、血統は完全に違う。アダムとエバはサルの血統的子孫ではなく、神から創造されて生まれたのであり、アダムとエバが人間の出発なのである。

その親は赤ちゃんのアダムとエバに乳を与えながら、アダムとエバの体は大きくなっていく。それとともに神はアダムとエバに自然を通して愛を注ぎ、次第に会話もできるようになっていったのだろう。

 

人間がサルから進化してきたという世紀の大ウソがばれ、また一方において聖書の文字通りの創造論が科学性を欠いていることが明らかな今こそ、人間をゴールとする段階的創造の真実性が真剣に研究されるべきときである。

 

つまり、以下のような問題が解かれなければならない。

 

人間始祖はどのように生まれたのか?どのように成長していくべきだったのか?しかし、神を親として生まれた人間がなぜ神がわからなくなってしまったのか?具体的には、失楽園の物語として描かれている堕落とはいったい何だったのか?

 

そして、そもそも、神の人間創造の動機、目的は何だったのか?神の愛とはどのような愛か?

 

これらの根本問題が科学と宗教の枠組みを超えて追求されなければならない人類的なテーマになっている。

 

 

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