子どもはみんな未熟な状態でこの世に生まれてきます。
大人からすれば当たり前に思うことがうまくできなかったりすることも多いです。
それ故に、接しているとついイライラしてきて、怒ったり、注意したりしてしまいがち。
私自身も子どもと一緒に学習をしていると、「こうすればいいのに」とか「なんでこうしないんだろう」などと思ってしまうことも多いです。
ご家庭に伺ってお子さんのお話を伺っていると、出来ることより、出来ないことについてのお話が多いと感じます。
でも、それはお子さんを思う親心故のことなのだと思うのですが。
大人はもうすでに様々なことができてしまうために、子どもに対して「困った子」「出来ない子」という前提をもってしまいがちなのかも知れません。
「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」という言葉があります。
その人が嫌いと思うと、その人に関わる様々なことまで嫌になるということの例えです。
日々生きていると様々な感情が沸き上がってきますが、
腹立たしいときは、腹立たしいという感情を正当化するような情報に、
悲しい時には、悲しいという感情を正当化するような情報に、
幸せな時は、幸せという感情を正当化するような情報に、
自分の意識が向きやすくなる、そんな経験はありませんか?
私たちは、出来事をありのままに認知しているのではなく、
自分の中にある感情と同調するようなものに焦点を合わせ、その感情を正当化する傾向があるように思います。
自分の感情の話だけではなく、人間関係においてもそうです。
この人嫌いだなぁと思うと、どうしても嫌なところが見えやすくなってきます。
この人好きだなぁと思うと、いいところが認識しやすくなってきます。
どういう前提を持つかによってものごとの見え方は変わり、その認知の仕方によって前提がさらに強化される。
私はそのように考えます。
性善説、性悪説という言葉があります。
人間の本質は善であるというのが、性善説、人間の本質は悪であるというのが、性悪説です。
私たち大人が、子どもたちに対して抱きがちな「困った子」「出来ない子」という前提は、性悪説に通じるものがあります。
「困った子」「出来ない子」という前提を持つことで、私たちの目は子どもたちのそういう面にくぎ付けになり、
「しっかりしなさいよ!」とか「もっと○○しなさい!」などの言葉がけにつながり、
子どもたちに、自分は「困った子」「出来ない子」という前提を抱かせるに至っているのではないでしょうか?
このお盆に私は甥っ子、姪っ子と一緒にご飯を食べる機会がありました。
1歳3か月の姪っ子はシラスが大好きで、嬉しそうに手づかみでむしゃむしゃと食べておりました。
その様子を見ている私に気が付いた彼女は、手に持ったシラスを「あい」っと私にも分けてくれました。
「ありがとう」とほほ笑むと彼女もまた嬉しそうに笑ってくれました。
その一連のやり取りから、私は人間は誰かに喜んでもらいたい生き物なのだなぁと強く感じました。
人間は心に悪を持って生まれてくるのでしょうか?
私は姪っ子の姿から、人間は心に善をもって生まれてくるのではないか、と思いました。
前提が人の認知の仕方に影響を与えるならば、その前提が変わればまた認知も変わるということです。
「困った子」「出来ない子」という私たち大人の抱く前提が、子どもたちの「困った子」「出来ない子」という自己認識につながっているのなら、
まずはその子のそばにいる大人が、その子に対する前提を変えることです。
前提が変われば、その子に対してかける言葉が変わります。
親御さんの言葉がけが変われば、お子さんの自己認識が変わります。
自己認識が変われば、お子さんのふるまいが変わってきます。
人を縛るのも前提ならば、人を変えてくれるものもまた前提です。
私は仕事柄、自分自身に対する前提が変わったことで、大きく変化していった子どもたちの姿を何度も見ています。
もし今ご自身がお子さんに「困った子」「出来ない子」という前提をお持ちならば、ぜひその前提を一度疑ってみてください。
接する大人の前提が変われば、お子さんは変わっていきます。
それでは具体的にどうすればよいか。
次回に続きます。