私は、歩くことが好きです。
特に好きなのは自然の中を歩くこと。いわゆるトレッキングというものです。
特に福島県の裏磐梯が大好きで、一時期足繁く通っておりました。
緑に囲まれたトレッキングコースを歩いているだけで、本当に気持ちいいし、幸せな気分になるのです。
私は今、新潟市の街の中に住んでおります。
朝早く起きて、同じように歩いてみるのですが、同じような気持ちの躍動をあまり感じません。
行っている動作は同じであるはずなのに、なぜなのだろうかと不思議に思っていました。
一昨日、ペルセウス座流星群が見れるということで、星空を眺めておりました。
流星群の極大期ではなかったためか、それほど多くの流れ星をみることはできませんでしたが、
星空を眺めながら、街の中を散歩するときに、なぜ自然の中を散策しているときと同じ気持ちが沸き上がってこないのか、その理由が分かった気がしました。
星空を眺めていると、そこに輝く星は全くの無秩序に配置されているように見えますが、人はそこに想像力を働かせ、ギリシャ神話の神々を星座という形で浮かび上がらせた。
生活の中で無秩序に繰り返されるように見える気象現象ですが、人間はそこにある秩序を見出し、法則化し、今では気象予報さえできるようになった。
身の回りで起きる一見無秩序に見える様々な自然現象の中に、人は神という秩序を見出し、そして科学という秩序を発展させていった。
そういう事例を鑑みるに、目の前の無秩序から人は秩序を見出そうとし、知性を働かせ、文明を築いていったという解釈ができます。
そこに無秩序さがあるからこそ、人間は創造的または想像的になれるのではないでしょうか。
街の中で生きていると、そこは秩序と意味で満たされています。
無意味なものは、忌み嫌われ、都市の暮らしからどんどん排除されていきます。
そのお陰で私のような都市生活者は、効率的で安全な生活をおくることができるわけですが、同時に私はそこに窮屈さも感じます。
その意味と秩序に満たされた街の雰囲気が、散歩していても解放感や充足感が得られない原因の一つなのではないか。
私は星空を眺めながらそう考えるに至りました。
筑紫哲也さんは著書の中で、海外をあちこち旅して日本に戻ってきて驚くのは、子どもたちの目に輝きがないことだと、書いておられます。
文明が発達した日本の都市は、大人があらかじめ用意した意味と秩序に満たされていて、それがそこに生きる子どもから、目の輝きを奪っているのではないでしょうか。
私は以前、仕事で数十人の子どもたちと粟島に出かけたことがありますが、海で泳ぎ、野を駆け回る彼らの表情は一様に生き生きと輝いておりました。
解剖学者の養老孟子さんは、オーライニッポンというプロジェクトを通じて、子どもたちに農山漁村で生活する経験を提供しています。
先日読んだ天外伺朗さんの著書の中でも、子どもを自然の中で育てることの大切さが語られておりました。
このお二人も、秩序と意味性で埋め尽くされた都市空間が、子どもから大切な何かを奪いさることに気づかれているのだと感じます。
私たち大人は、秩序だったものは素晴らしく、無秩序は良くないものという価値観に知らず知らずの間に縛られているのではないでしょうか。
確かに秩序だった世界は、効率的で生活しやすいかもしれません。
ただその代償として奪われてしまうものもたくさんあることを忘れてはいけないのだと私は考えます。
無秩序は決して無意味なものではなく、それがあるからこそ、人の想像力または創造力は賦活されるのです。
無秩序の効用、それは人を想像的あるいは創造的にしてくれることだと私は考えます。
子どもの生育を考えたとき、想像性と創造性を育みたいのならば、都会を離れ自然の中で過ごす時間を持つことが大切なのだと感じます。
今日はお盆休みの真っ只中。田舎で過ごされている方も多いのではないでしょうか?
ぜひお子さんと一緒に自然の中で遊んでみてください。
その経験がご自身の、そしてお子さんの想像性と創造性を呼び起こしてくれることと思います。
私は今、学習を通じて子どもを育てるという仕事に関わっておりますが、
その内容は大人があらかじめ付与した意味や秩序や論理に満たされていて、無秩序さが子どもに与えるもの、という観点が欠落しているように感じられます。
論理や秩序も大切ですが、それと同じくらい大切な、想像性と創造性を育むために、どう子どもたちと関わっていけばいいのか。
私にとっての課題です。