数日来、なぜ日本人は対話という習慣を持てないのか?ということについて考えております。
高等教育で身につけるべきこととはなんでしょうか?
大学や大学院でしか学べない高度な知識でしょうか?
卒業後に役に立ちそうな資格でしょうか?
私が考える高等教育で身につけるべきもの第一位は、懐疑的精神です。
小学校、中学校、高校までは、出された問いに対して、解き方を教わり、それを覚えテストで正解を導き出せれば、良しとされてきました。
でも考えてみて下さい。
実社会に出て、はじめから答えが用意されているような問題があるでしょうか?
責任のある立場になれば、はじめから答えるべき問いが与えられることさえ少なくなってきます。
つまり、小中高で学んできたことと、実社会で求められることの間に大きな齟齬があるのです。
それを埋めるためにも、私は高等教育を通じて懐疑することを学ぶべきだと考えます。
先日のブログにも書きましたが、考えることとは、懐疑することからは始まります。
本当にそうだろうか?と懐疑し、文献を調べまたは人に聞き、自身の仮説を立て、それを検証し、その結果にまた懐疑を抱き・・・。
この円環構造のプロセスを「考える」と言います。
こうして見てみると、考えること自体が対話のプロセスと同じ構造を持つことが分かります。
世間一般の定説に懐疑を投げかけ、仮説を提示し、それを検証し、新たな定説を立ち上げていくというプロセスは、
他者の意見と自分の意見とが混ざり合うことで、両者を包含する新たな考えを形作る対話のプロセスと同種の構造を持つのです。
つまり、考えるとは自己内対話なのです。
人は考えるという自己内対話を通じて「自分」という人間を形作っていきます。
明治の文豪夏目漱石は、西洋文学を学ぶために留学したイギリスで神経衰弱に陥りました。
日々悶々とする中で夏目漱石は、ある時大切なことに気が付きます。
今まで自分は西洋のものであれば、自分で咀嚼することもなく、何でもかんでもありがたがって鵜呑みにして生きてきたこと。
そこには「自分」という人間がなく、まったくの他人本位の人生であったこと。
その他人本位の生き方が自分の人生を空虚にしてしまっていたこと。
夏目漱石は異国の地で自己内対話を続ける中で、「自己本位」という言葉を手に入れ、西洋文学の受け売りではなく、自分の感性に立脚した自分の作風を形作っていきました。
このように、考えるという自己内対話を通じて、人間は「自分はこう思う」と言い切れる自己を形成していくのです。
「自分はこう思う」と発話できる「自分」という主体がない人ほど、不安感から声の大きい他者や、自身ありそうに振る舞う他者の意見を鵜呑みにし、
その意見に固執し自分たちの世界に閉じこもったり、異なる考えに対して攻撃的になったりするものです。
一方で自己内対話を繰り返し、「自分はこう思う」という自己を確立している人ほど、
逆説的ではありますが、自分に安んじていられるので異なる他者との対話に身を投じていけるのです。
だから、日本人が対話のプロセスに自分自身を開いてくためにまずすべきことは、自己内対話、つまり考えるということです。
そしてそれは疑うことから始まります。
声の大きい誰か、自信ありそうに振る舞う誰かの考えを鵜呑みにするのではなく、「本当にそうか?」と疑ってみることから「考える」は始まります。
「疑う」とうことは、今私がここで書いた事柄さえも鵜呑みにしないということです。
どうぞ日常生活を通じて懐疑し、自分で考えてみてください。
やってみると分かりますが、結構楽しいですよ。