昨日のブログで、日本人に対話の習慣が身につかないのは、学校の授業で「考える」というプロセスを省き、正解を教えることが原因の一つではないか、と綴りました。
これは学校でトラブルがあったときによく耳にする「学校の先生が悪い」という主張とは毛色の違う話です。
学校で教えている内容、私は素晴らしい内容だと思います。
変化の激しい時代であればこそ、専門的知識を身につける前に、学校で教えているような一般教養をこそ、人は身につける必要があると感じています。
その一方でその教え方、評価の仕方に関して、私は問題もあるのではと考え、昨日の記事としました。
そしてそれは私のような部外者が言わなくとも、現場で教えている先生ご自身が十分感じていることだと思います。
加えて、学校の先生は今、非常に過酷な労働環境の中に置かれています。
残業時間は過労死レベルに達し、部活動の顧問をしている先生は数か月休みが取れない、などという事態さえ起きています。
そんな過酷な環境の中で精一杯やっている先生をこれ以上責めて、それが子どもの学習環境の改善に資するでしょうか?
学校の先生は公務員です。
その立場上、決められたルールの中で子どもたちに勉強を教える必要があります。
だから改善すべきは、そこで働く人ではなく、制度ということです。
そして私たちには、間接的にではあれ、その制度を変えていく力が与えられています。
その私たちが学校の問題を他責的な文脈で語ることに、私は違和感を覚えます。
問題に際会したとき、「自分に何ができるだろうか?」と当事者の立場をとる人間を大人といい、
「私は悪くない、誰か何とかしろ」と被害者の立場を先取する人間を子どもといいます。
「誰かのせい」と他責的な態度を決め込み自らの思考を停止させる人間は、
自分の考える「正解」に固執し対話の場に自分の身を開いていけない人間と、構造的に同型です。
対話の場に自分を投じていける人間であるためには、私たちがしばしば陥りがちなこの被害者意識を、当事者意識に切り替えていくことが必要なのだと考えます。
続きます。