前回のブログでは、日本人には対話という習慣が身についていない、と綴りました。
今回は、日本人に対話するという習慣が根付いていない理由について考えてみたいと思います。
このことに関して、歴史的、地理的、文化的、様々な切り口から語ることができると思います。
でも私はそういうことの専門家ではないので、それ以外の学習という視点から考えてみたいと思います。
まず「対話」とは、「はじめに答えありき」という前提では、生まれません。
正しい答えがあると信じている人は、自分の答えを他者に押し付け合うこととなるでしょう。
「正しさ」は同時に「間違い」も生み出します。
「自分は間違っているかも」と思う人は、自分の考えを発することを避け、沈黙することになるでしょう。
対話とは、言葉を交わし合うことで自分の意見でもなく、相手の意見でもなく、その二つを包含する新しい考えを生み出すというプロセスでした。
しかし、この「はじめに答えありき」という前提のもとでは、そのような創造的な会話が生まれにくくなります。
この「はじめに答えありき」という前提が、人と人が対話することを邪魔していると私は考えます。
私はよく子どもに「間違ってもいいから自分の考えを言ってごらん」というのですが、それでも自分の考えを口にすることを憚る子が多いです。
その姿からも、日本人がいかに「正しさ」に呪縛されているかが分かります。
それではこの前提を私たちは一体どこで持つようになったのでしょうか?
大きな原因は学校の授業だと思います。
日本で今のような学校教育がスタートしたのは、明治五年のことです。
その頃の日本の喫緊の課題は国家の近代化でした。
急いで近代化を果たさなければ、隣国清のように欧米列強の植民地にされてしまいかねなかったからです。
そこで大切になるのは、効率的な教育です。
以前のブログで書きましたが、人が成熟を果たすためには葛藤が必要です。
しかし国の近代化が焦眉の急であったこの時代、葛藤のプロセスを待っているわけにはいきません。
そのような時代背景があって、答えを教え、憶えさせ、理解させるという今のような教育の形が生まれたのです。
このような教育で育まれるものは、理解する力、記憶する力、が主になります。
二つとも大切な力ではありますが、この二つの力を身につけるのはなぜかといえば、自分で考えられる力を育むためです。
考えることは、懐疑から始まります。
本当にそうだろうかと懐疑し、様々な文献を調査し、また人に話を聞き、それを元に仮説を立て、それが正しいか検証する、という一連のプロセスを通して考える力は鍛えられます。
しかし、この学習では、答えを教え、記憶させ、理解させるだけですので、考えるというプロセスがありません。
考えられない人はどうなるか?
誰かから教えられた正しさに固執するより他にありません。
そして「正しさ」に囚われていれば、対話の場に自分を投じていくことが難しくなります。
これが日本に対話するという習慣が根付かない理由の一つだと私は考えます。
人、モノ、情報が垣根なく行き交う時代。
異なる他者との遭遇が避けられない時代。
人間は好むと好まざるに関わらず、その状況に適応していかねばなりません。
他者との対話に自身を開いていけるために、私たちはどうしたら良いのでしょうか?
続きます。