前回の記事で、才能とは「やり続けられること」と書きました。
それではやり続けられるもの、やり続けられないもの、一体何が違うのでしょうか?
なぜやり続けられるのか、考えてみました。
=なぜやり続けられるのか?=
人が行動を起こすときの動機。
一般的に言われるものは二つだと思います。
ひとつは、快を得るため。
もう一つは、不快を避けるため。
ここ数回にわたり取り上げている実学志向という趨勢を駆動しているのは、将来仕事に就けなくなるという不快を回避したいという感情でしょう。
不快を避けるための行動ですから、不快をもたらす何かが目の前からなくなれば、その行動を続ける必要性はなくなります。
つまり、不快を避ける行動というのは、行動の動機が不快を避けるためであるが故に持続性を欠くことになります。
持続性がないから、成果も出にくいでしょう。成果が出にくいから持続もしません。
こうして考えていくと、不快を避けるという動機からの行動は結果に結び付きにくいと言えます。
快を得るための行動はどうでしょうか?
目的が快を得るためなので、やり続けられる。そしてやり続けるから成果にも結び付きやすい。成果が出るからまたやり続けようとする。
そういう好循環が起こりやすいのは、行動の動機が快を得るためであることが分かります。
やり続けられるのは、その行為がその人にとって快であるから。そしてやり続けるから成果が出る。成果が出るからやり続ける。
何かをやり続けるためには、それが自分にとって快であることが必要なのです。
前回の記事に書きましたが、才能とはやり続けられること。
そしてやり続けられるのは、それがその人にとって快であるから。
つまり、自分にとって快である何かとは、換言するするならその人にとっての才能の芽ともいえるのではないでしょうか?
ただ、自分にとって何が快いですか?と尋ねられたとき、それに即答できる大人は少ないと感じますし、その傾向は子どもについても同じだと思います。
それは、子どもたちも、今大人である人たちも、小さな頃から、親や先生や社会の要請に応えることを、自分の快不快の感じ方よりも優先させてきた結果なのだと思います。
今の大人たちが子どものころは、この流れにのっておけば大丈夫という頑強なシステム、生き方の指針のようなものがありました。
そして自分たちがそれに沿って生きてきたから、親になった今も子どもたちにその生き方を踏襲するよう要請する。
そうやって自分の中に湧き上がる感情よりも、自分の外側からの要請を大切にして生きてきたから、その帰結として自分にとって何が快で何が不快であるのかさえ分からない人が今増えているのだと思います。
快と感じる何かこそが、その人にとっての才能の芽。
時代の変化が恐ろしく早い今、十年先がどうなるか大人でさえも見通すことの難しい今。
時代を後追いするような実学志向より、才能の芽ともいえる自分にとっての快を大切にして生きることこそ、本当に合理的な生存戦略なのではないか?
私はそのように考えます。
それでは、子どもの才能の芽、その子にとっての快を大切に伸ばしていくために、私たち大人にできることとは何でしょうか?
次回に続きます。