ひきこもることは悪なのか?
ひきこもることで失われるものがないわけではありません。
ただ、その子の周りにいる大人が適切なケアさえしてあげれば、得るものの多い豊かな時間にもなり得る。
ひきこもることで得られるものは二つ目の言葉、二つ目の視点、前回はそのようなことを綴りました。
=価値とは何か?=
今、目の前に大きなカバンと小さなカバンがあったとします。
どちらのカバンのほうが価値があると思われますか?
収納性というモノサシで測れば、大きなカバンのほうが価値があるでしょう。
携行性というモノサシで測れば、小さいカバンのほうが価値があるでしょう。
経済的価値というモノサシで測れば、値段の高いほうが価値があるでしょう。
思い出深さというモノサシで測れば、それにまつわるエピソードの多いほうが価値があるでしょう。
観察してる対象は何も変わっていないのに、どういうモノサシでそのモノを測るかによって、価値というものは簡単に入れ替わることが分かると思います。
絶対不変の価値などというものはなく、どういうモノサシを採用するかによって、「価値」というものはコロコロと移り変わる、そういうものだということです。
=世間のモノサシ、自分のモノサシ=
大人でも子どもでも、世間一般の価値観から距離を置くというのは、結構勇気のいることだと思います。
こんな事したら、こんなこと言ったら、周りの人から変に見られるのじゃないか?
自分を含めそんな風に気になる方は多いと思います。
ただ、価値というものは絶対不変のものではないし、世間一般に信じられている考え方、世間のモノサシがいつも必ず正しいとも限りません。
横並びの発想で、みんなで足並み揃えて断崖絶壁に向かって行進していた、歴史を振り返ればそんな事例は枚挙に暇がありません。
そんな時代にさえ、世間の価値観に流されず、世の中と適切な距離を取っていたが故に大惨事を免れた、そんな人間もいるわけです。
そういう人はその他大勢と一体何が違うのか?
それは世間一般のモノサシとは異なる自分なりモノサシ、もう一つの視点を持ちえたか否か。
それが両者を分かつもの、私はそう考えます。
世の趨勢に流されることなく、自分の価値観を信じて決断を下せる人間。
それはそういうひきこもる時間を経験してきた人なのではないでしょうか?
世間のモノサシと自分のモノサシ、どちらが正しく、どちらが間違っているのか?単純に判じることは難しいと思います。
そうではなく、物事を測り取るモノサシの種類が増やすことで、目の前の事柄をより多角的に検証することができるようになる。
だから世の中全体が危険な方向に向かってしまっても、自分を信じて生きていけるようになる。
その価値観は一人の時間を持つからこそ得られるもの。
私はそう考えます。
次回に続きます。