人にとって「母」とは特別な存在である
だからお子さんがどんなに困難な状況にあっても
お母様、またはお母様の役割を担う方が
当事者意識を持って寄り添うことで
お子さんは立ち上がる
前回は3カ月で小学校を退学になったエジソンの例をご紹介しました
明治維新へと日本が舵を切る大きなきっかけとなった薩長同盟
その薩長同盟締結の立役者、坂本龍馬もまた「母という存在」によって立ち上がった一人です
=坂本のよばいったれ=
1835年11月15日
高知城にほど近い本町1丁目に坂本家の第五子として龍馬は生まれます
後々の革命家のイメージとは裏腹に、幼少期の龍馬はとても甘えん坊でした
いつも鼻をたらしており、夜尿症は11歳になるまで治らなかったと言われています
近所の子どもたちからは坂本のよばいったれ(寝小便たれ)とバカにされていました
12歳になると龍馬も読み書きの勉強のため楠山塾に通い始めます
しかし同級生に泣かされて帰ってくるわ、勉強が全くできないわ
すぐに退塾させられてしまいました
=坂本のお仁王様=
12歳の時にずっと病気がちであった母を亡くした龍馬
それ以降龍馬を母親代わりとなり育て上げたのは
三つ年上の姉、乙女でした
175cm、110㎏の体躯
薙刀、剣術、弓、馬術
舞踏、謡曲、琴、三味線
武芸に秀でた乙女はその体つきから
坂本のお仁王さまと呼ばれていたそうです
龍馬はお仁王様から読み書き、武術の特訓を受けます
ある日水練のため乙女は龍馬を川へ連れて行きます
龍馬を素っ裸にさせ腰にひもを巻きつけて、もう一端を自分が持つ竹ざおに結わえる乙女
龍馬を川に飛び込ませ水練を叩き込んだというエピソードが残っています
乙女の教育の甲斐もあり14歳から習い始めた剣術で龍馬はメキメキと頭角を現します
甘えん坊でいじめられれっ子のよばいったれは逞しい青年へと成長してゆきました
=革命家へ=
1862年3月24日
「桜を見に行く」
家族にそう言い残し龍馬は土佐藩を脱藩
革命家への道を歩み始めます
脱藩は当時、捕まれば死罪という重罪でした
日本全国を旅してまわるその道すがら
龍馬はたびたび乙女に宛てた手紙を書いています
「日本を今一度洗濯いたし申し候」
という有名な台詞も乙女への手紙の中にしたためられていた一節です
その事からも龍馬にとって乙女の存在が
ただの姉弟以上のものであったことが伺えます
また表題の言葉
「世の人は我をなんとも言わば言え、我がなすことは我のみぞ知る」
は龍馬が書いた有名な和歌です
世の中で大勢を占める価値観に対して違和感を覚え
自分の命を賭してでもそれを表現できたのは
客観的にどんなに良くない状態であったとしても
決して見限ることなく自分の可能性を信じ寄り添い続けてくれた
「母という存在」が龍馬の心に根付いていたからではないでしょうか
=違和感を表現する勇気=
不登校に悩まれる親御さんにお伝えしたいのもこのことです
お子さんが違和感を抱き、それを不登校という形で表現する勇気を持ち得たのは
お子さんの心の中にしっかりと「母」が根付いているからではないでしょうか
お子さんとの間にしっかりとした信頼関係を築いてこられたからこそではないでしょうか
苦しさを受け止めてくれる、分かってくれるという信頼感があればこそ
人はそれを表現出来るものだと感じます
どうかご自身を責めないでください
歴史上の偉人と母、そんな内容で綴ってきました
次回は歴史上の偉人でもなんでもありませんが
思い返せば自分自身がいつも母に支えられていた
そんな自分の経験を綴ります