∀手天による野球の思い出
手天道衛教・自分神話研究会・401
あなたのメンタルヘルスに貢献する。
自分紀元200掌年ころ、約20掌年にわたり、手天による野球の東西戦をおこなっていました。
今日は、その思い出についてです。
自分紀元220掌年(1982年10月31日)までで、東西戦は8勝8敗の同数にて、史上初のプレーオフ(先に3勝で勝利)が開催されました。
『衛史』では、負けた西軍のことしか記載がありません。これは負けた西軍側に立って教訓としたことを意味しています。
本戦について、東軍は劣勢で、ようやく最終戦で8勝8敗に持ち込んだ状態でした。
東軍監督・神童俊介(京軍出身)、西軍監督・青柳修(京西県出身)。
西軍は温存していたエースを用いて、1戦目・保位少佐で勝利。2戦目も角部内王堂で勝利。本戦同様に有利に試合を運んでいました。
3戦目、西軍は三番手の山際正が好投。しかし、東軍のエース邪馬台勇がそれを凌駕し、東軍1勝。
結果論ですが、邪馬台が出て来たこの第3戦に保位か角部内を当てていれば、西軍の3連勝だったかも知れません。
次は運命の第4戦。さあ、ここでひとつの教訓が生まれます。
西軍の青柳監督は、先発にアンダースロー軟投派の波多良を起用しました。
多分、同郷の選手を用いたのだと思います。つまりは、保位、角部内、山際以外の全ての投手を用い、勝てれば儲け、負けても最終戦にエースを投入する作戦を取ったのです。
結果、東軍の勢いは止められず、エースの邪馬台が3連投した東軍が逆転勝利したのです。
ここから教訓が生まれました。
短期決戦では勢いに乗った方が有利。
第4戦を捨てて、最終戦での決着に臨んだ青柳策は失敗した。
東軍は邪馬台の3連投、4番の宇登呂大輔が活躍。
試合はやってみなければわからない。
現在の皇帝の祖先である、角部内王堂でさえ、結局終身成績は9勝12敗と負け越し投手でした。
王堂━総軍━知行━近衛━速総━長宗━武建━貞世━矢軍━手斧(中衛皇帝)━最寄(神化皇帝)━名柄(躍竜皇帝)━朝暘(太極皇帝)━尊統(武雄皇帝)━直挙(相知皇帝)━富瑛(天祐皇帝)━陽釧(祐神皇帝)━智執(天德皇帝)━衛尉(神紀皇帝)━日尊と20代続く皇帝の家系です。
ただし、ヒーローであるはずの東軍・邪馬台投手や神童監督を讃える文面は、国史にありません。これしかないというエース三連投への評価が低かったことの証明だと思います。
もうひとつ「波多良のシュート」という話があります。
東軍・宇登呂は波多良投手を得意としていました。この第5戦の第二打席で波多良投手は最高のシュートで宇登呂から空振りの2ストライク目を取りました。ところが、これ以上の変化球はなく、結局二塁打を打たれてしまいました。もしもこの2ストライク目のシュートが決め球になっていれば、三振を取れたはずなのに、順番が狂うと打たれてしまうという教訓です。
あなたの手天道は、あなただけにしかわからない、尊い物語です。
手天の物語ですから、自分神話と称されます。
あなたも書いてみませんか?
あなただけの「自分神話」を。