鬱病は原因も症状も経過も人によって異なる病気です。一患者の主観による体験談です。




鬱病そのものは死に至ることはない病気です。


むしろ、死なないために本能がブレーカーを落とした結果だと思っています。安全機能が正常に働いた結果です。

だけど希死念慮という症状が出ることがあり、取り返しのつかない結末に至る可能性もある厄介な病気でもあります。



なにしろ、辛い。辛いとしか言いようがない。

全身に大火傷を負ったものの、痛みだけが薬で完全にコントロールできている状態と言えば伝わるでしょうか。

「痛くないんなら大丈夫でしょ?」とはならないですよね。


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おそらく〈とにかく動くな。じっとしてエネルギーを温存しろ〉という本能側の意図だと思うのですが、〈快い〉と感じる感覚が鈍くなります。〈快い〉と感じれば、さらにそれを求めて動こうとしてしまい、エネルギーを消費してしまうから。


結果的に、楽しみも喜びもほとんど感じられない灰色の時間が無為に過ぎていくだけです。


そのくせ、なぜか焦ってグルグル止まらない思考。今の危機的状況を解決する手段は何かないかと、脳内は忙しく過去の記憶を遡って空回りを続けます。以前、危機を回避した経験の中に、何か役に立つものはないかと探しているのでしょうが、当然それは辛かったこと、嫌だったことの記憶ばかりです。


その上、判断力が低下することで視野が狭くなり、白か黒かの極端な二択思考に陥りがちです。私も症状が重かった頃は、「あ、生理が来た。めんどくさい。死にたい…」となっていました。



誤解を恐れずに言うと、「死にたい」と思うのは仕方ないんですよ。症状なんですもん。


花粉症の人がクシャミが止まらなかったり、インフルエンザで高熱が出るのと同じ。


希死念慮があること自体を、本人や周囲が「悪いこと・ダメなこと・いけないこと」だと責めてしまうと、ますます辛くなるだけだと思うんですよね。


「死にたいと思うほど辛いんだね」とそのまま認めてあげた方が楽になれるんじゃないかと。



当時の私の支えになったのが、

「もし今の辛さが死んだ後も同じように続くと仮定した場合、それでも死にたい?」

という問いでした。

「いや、それなら死にたくない」と思ったんですよね。「そうか。私は『死にたい』わけではなくて、『今の辛さから解放されたい』と思っているだけなんだ」と。


辛さから解放される手段として死ぬことしか思いつかないから、「死にたい」という発想に囚われてしまうだけです。


それが自覚的に区別できるようになったおかげで、希死念慮に飲み込まれずに済みました。



この記事を読まれたということは、患者さんご本人か、身近な大切な人が苦しんでいるのかと拝察します。


文字通り、命を懸けた戦いです。
今日いちにち、今この瞬間、生き続けることを選んだ精神力と勇気を称賛せずにはいられません。


この記事が1ミリでもお役に立てば…と祈るような気持ちです。