先日、「PIECE OF MUSE」(2/2~2/5)と題して個展を開催しました。昨年、東京にあるいとなギャラリーという会場のサイズと雰囲気に合わせて「MUSE~いのちのためのオムニバス~」という10作品を制作し、そのうちの8点を展示したものです。

薄明かりの中、切り抜かれたむき出しの切り絵を、鑑賞者がペンライトを持って作品を照らし、影絵として楽しむという行為としては、今回の会場(姫路市/コワーキングスペースSHARES)の方がより適した空間だったかもしれません。

ぼくはこの「PIECE OF MUSE」の準備と展示に丸二日かけましたが、普通1人の作家が個展を開く場合、まあ一日かければ十分であると思われます。ただ、今回の作品はただ額に収められた絵画ではなく、特注の組み立て・組み外し可能な木製額に、1.5m幅の切り絵を収めて展示するので、作品の組み立てと展示にまず丸1日かけました。翌日は、天井の照明を、人がペンライトを当てた時に自由に楽しめるための最高の明るさと角度にするための微調整にまるまる当てました。

 

さて、ぼくのこの個展におけるテーマである「自由に作品を解釈し、鑑賞してもらう」ことですが、その自分の本懐を作品を通してうまく通訳することの大変さを思い知りました。厳密に言えば、100人中100人に伝えることの大変さ・難しさ、です。

ぼくとしては展示の仕方や照明の調整すべて、「自由に作品を楽しんでもらうための」限定された解釈に向わないようにとても細心の注意を払ったものでした。

例えばもともと会場に設置されていた物、壁にかかったスクリーン等にも作品の影が映るような展示にもしたのですが、これはあくまでたまたまそこにあったからそうしただけなんです。ちょくちょく「このスクリーンは何に使うのですか」「何か意味が?」と聞かれることもありました。けれど、そこへ影を映してもいいし、映さなくてもいい。映そうとした人には、ぼくが協力して会場の明りをやや暗くしたり、映そうとしなかった人はそれとは別の何かを発見したり。何かが誰かの意図的な思惑へ向う必要などない。それが芸術を楽しむことの、ぼくにとってのテーマです。少なくとも「PIECE OF MUSE」はそれを実践したかったのです。

 

また、へんてこなところに敢えて椅子やテーブルを置いてましたが、座ってもいいし座らなくてもいい。でも子供なんかは何も言わなくてもそこへ勝手にペンライトを置いて作品に光を当て、両手を自由にしていまいした。他の来場者の方にも、ぼくはあえて全てを説明せず、ヒントはお話する程度にとどめていました。何かにつけてこういうふうに話した場合、「言ってもらわなきゃわからないよ」とおっしゃる方がたまにおられますが、恐らくこういう方の場合は言って聞かせてみた挙句「あぁ・・・」くらいの反応をキョトーンとした顔でされるのが目に浮かびます。やはり自分で発見した事の方が心に残りますし、感動もします。古典落語のオチをどこがどう面白いのかを人に説明するようなものです。説明する方もされた側も、落語家も、みんな得をしない行為です。だから発見されないものは発見されないまま、土の中で眠っている方が誰にとっても幸せなことなんです。

また会場のことに話を戻しますが、作品同士が向き合って並ぶ箇所もありましたが、それも特に意味はなかったのですが小さな作品から光を放って、大きな作品に影絵を映すとかそんな発見をしてくれた人も。

 

左の作品「リーブとブーリ」の方からライトを照らし、右の「オアシス・ブルー」へその影を映す。

 

または人の体に絵の影を映す。

 

それに作品に光を当てる時、ペンライトは1本限定というルールもなく(会場には4本用意していました)、スマホの光だって使ってもらっていい。制限と言えば「作品には手をふれないでください」という当たり前のルールのみ。白い紙なので汚れが着いたりするのを避けるためです。皆さんご承知の通り、紙というものは破れます。手油や水分で弱くもなります。もしご存じない方がいらっしゃったら、紙に油や水をぬって試してみてください。また、小さい子供さんがいたら教えて上げてください。

色の違う二つのペンライトを用いて、それぞれ太陽と人物を照らしながらゆっくり影を動かして行くと、下の写真のようにまるで日の出のような移り変わりを観ることができる。これにはぼくも圧巻の発見。

 

 

4日間の開催中、特に外国の方や子供は、ぼくが何ひとつ言わなくても、ぼくが提示したひとつのゲームとして、ルールも自然に飲みこみ、この空間を心から楽しんでくれました。例えば、絵に描かれた物体がウクレレに見えようと龍に見えようと、どちらでもいいんです。ぼくの頭からはみ出た色々な表現が、観る人によってぐちゃぐちゃにされていけばいくほど、作り手は喜びなんです。だって、音楽にしてもひとつの曲が誰かの心を打つ時、そのフレーズを奏でた楽器がクラリネットに聞こえようとオーボエに聞こえようと、そんなことは本当にどうでもいいではないですか。その人が「あのオーボエの音がよかった」って、実際にはクラリネットだった楽器のことを言ってたところで良い作品である事実に変わりはない。その人が良い時間を過ごせた事実になんの影響もない。

話は前後しますが先に述べた「ウクレレ」と「龍」のことですが、ぼくは「DUST STARDUST DUST」という作品の中で、星空を見上げる女性に弦の切れたウクレレを持たせました。弦が切れているのも気付かないほどに星空の美しさに目を奪われている状態を表しています。この、切れた弦が龍の髭に見えたようで、ある子供が「龍だ」と言いました。じゃ、それはもう龍なんです。それでいい。いや、それがいい。保護者の方が子供に「ウクレレ」と断言する前にぼくはそれを遮りました。ぼくが作品を制作することで全身全霊を持って伝えたいことはそれがウクレレであることではないのですから。各鑑賞者がどんなルールと文脈を持ち込んでもかまわないから作品を楽しむこと。それがぼくの望むことです。「そうか、こちらのルールで楽しめばいいんだな。じゃ触ったり壊したりするのを楽しみたい」とはどうか言わないでください。もともとこちらが提示したルールの中で、ということに限定されるのは当然のことです。

来場者の方で、「作品に触りたい。触るのがインスタレーションじゃないのか」とおっしゃった方がおられました。ぼくはこの個展で「鑑賞者が光を自分で当てて、作品を体感するインスタレーション」というふうに皆さんにお伝えしてきました。ご存じない方にご説明しますが、インスタレーションを簡単に言いますと、ただ「観る」だけではなく「鑑賞者が体感するアート」のことです。ぼくとしましては、各自が持つペンライトによる光の当て具合(角度や距離、また投影する対象物の差異)によって、その人だけの発見を楽しめる、もしかすると作者であるぼくが観た世界を遥かに超える世界を観れるかもしれない。生み出せるかもしれない。そいう意味での体感を促す、という意図を込めて使った言葉です。そしてそれはあくまでぼくの提示する、ある一定のルールのなかでならどこまでも自由なのです。読書や音楽を聞きながらの瞑想がそうであるように、無限の力となりうるのです。しかしもし、「体感することがインスタレーションだから」と「作家の狭量な想像力で作ったルールなど強力に捻じ曲げ踏み越えるのがアート」というのなら、「作品を食べたい」「舐めたい」「火を着けたい」「会場で脱糞したい」などで楽しみたいなどという主張にも耳を貸さなくてはならず、それはある種のアートかもしれませんが、それがアートであったとしても、ぼくには関係のないことです。ぼくはアートに身をささげたり、その実践を求めていないからです。アートという(英語のartとは違って日本語における)言葉の、とても制限された偏狭な響きに、ぼくはとても違和感を覚えるのです。「絵具をぶちまけることがアート」「ぶっとんでいることがアート」「スタイリッシュなのがアート」そんなこんなの、ただただイメージにしばられた決まりごとが、まるで呪文のように聞こえてきそうな響きを持つ言葉です。ぼくにとっては。

だから皆さんも、目の前にあるもの、目の前にいる人を、ただ、自分の目で見てほしいんです。ずいぶん散漫な文章になってきたのでこの辺で終わりにします。またじっくり自分なりに煮詰めて改めて書きなおしたいテーマです。ごきげんよう。さようなら。