長安奪還 | 歴史で旅する

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年表⑤

 

757年1月、父・安禄山を殺害した安慶緒は、

「陛下の遺勅(遺言)により、私が皇帝となった」と言って、偽の遺勅を見せ、

安禄山が建国した燕の皇帝に即位しました。

 

でも、人の懐に入るのが上手だった安禄山に対し、

安慶緒は周囲の意見を聞かず、そのうえ、物事を正しく判断しなかったため、

臣下は安慶緒から離れていきました。

 

安禄山の盟友・史思明は、安慶緒に失望し、

軍と金品を持って、范陽に引き上げ、自ら国を作ることにしました。

 

史思明を始め、臣下が離れたとはいえ、

偽の遺勅を信じて、安慶緒のために戦う兵もいました。

 

9月、安慶緒を震撼させる報告が届きます。

 

ウイグル帝国の葛勒可汗が3000人の兵を唐に派遣したというんです。

喜んだ粛宗は長男・李俶と葛勒可汗の長男・葉護太子に兄弟の契りを結ばせ、

李俶を総帥に、郭子儀を副総帥に任命しました。

 

ウイグル帝国の援助を受けた唐軍の兵は15万人になりました。

 

李俶は郭子儀と共に15万人の兵を率い、安慶緒軍を攻めました。

 

葉護太子軍が、潜んでいた安慶緒軍と遭遇したり、

郭子儀軍が、安慶緒軍の勢いに押されて、退却したりと、

劣勢に立たされる場面もありましたが、

その度に、ウイグル帝国軍が援助し、安慶緒軍を撃破することができました。

 

また、潼関を奪った崔乾祐が河東に滞在していると知った郭子儀は、

河東を奪い、哥舒翰が潼関を奪われた雪辱を果たしました。

 

厳しい戦いを乗り越え、ついに、唐は長安を奪還しました。

 

また、勢いに乗って、洛陽に向かい、洛陽を奪還しました。

安慶緒は黄河を渡って、鄴(河北省邯鄲市)に逃亡しました。

 

 

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