粛宗と霊武で合流した郭子儀。
郭子儀の指揮のもと、軍、兵糧が整いました。
でも、唐軍の武将が次々と撃破され、
安禄山軍が優勢であることに不安を感じた粛宗は、
側近・李泌に「いつになったら、平和が訪れるのか」と言いました。
李泌には官職はありません。
でも、李泌はやり手。
何故、李泌は官職を与えられなかったのでしょうか。
実は、李泌の才能は玄宗も認めていて、
玄宗は李泌に官職を与えようとしました。
でも、李泌は辞退しました。
すると、玄宗は「では、せめて、李亨と友達になってほしい」と言って、
身分や地位に関係なく、李亨と友達として接するように言いました。
玄宗に目をかけられ、李亨と友人となった李泌は楊国忠から嫌われました。
楊国忠の攻撃を恐れて、李泌は長安を離れて、
名山(四川省雅安市)で静かに暮らしていたんです。
安禄山が挙兵すると、李亨は李泌を呼び出しました。
李泌は将軍の任命から軍の配置まで、あらゆる戦略をたて、粛宗をサポートしました。
粛宗は李泌を右相に任命しようとしました。
右相は皇帝を補佐する最高位の官職です。
もちろん、李泌は辞退しました。
李泌に感謝の気持ちを伝えたい粛宗は、「では、何が欲しいのか」と尋ねました。
すると、李泌は「反乱を鎮圧したら、陛下の膝枕で寝たい」と答えました。
さて、そんな李泌は、安禄山を相手にどのような戦略をたてたのでしょうか。
・安禄山軍は本拠地・范陽に戦利品を輸送している
・蕃将を登用し、漢民族は高尚達数人だけである
・安禄山軍の中でも目立って手柄をあげているのは、
史思明、安守忠、田乾真、張史志、阿史那承慶の5人だけである
という事実を踏まえたうえで、
・李光弼が河北を、郭子儀が河東を攻めれば、
史思明と張史志は范陽、常山を離れることができないし、安守忠と田乾真は動けない
・となると、安禄山軍の中で動けるのは阿史那承慶だけ
・阿史那承慶を李光弼と郭子儀で攻めれば、
阿史那承慶も他の軍も疲弊して、最終的には安禄山を捕らえることができる
と戦略をたてました。
粛宗は李泌の戦略に賛成しました。
。oOo。.:*:.。oOo。.:*:.。oOo。.:*:.。oOo。.:*:.。oOo。
↓「歴史で旅する」の姉妹サイト「ブログで旅する」↓
ブログランキングに参加しています。
↓ここをクリック
一記事ワンクリック、いや、一日ワンクリックしてくださると嬉しいです。