軍師・李泌 | 歴史で旅する

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年表⑤

 

粛宗と霊武で合流した郭子儀。

郭子儀の指揮のもと、軍、兵糧が整いました。

 

でも、唐軍の武将が次々と撃破され、

安禄山軍が優勢であることに不安を感じた粛宗は、

側近・李泌に「いつになったら、平和が訪れるのか」と言いました。

 

李泌には官職はありません。

でも、李泌はやり手。

 

何故、李泌は官職を与えられなかったのでしょうか。

 

実は、李泌の才能は玄宗も認めていて、

玄宗は李泌に官職を与えようとしました。

でも、李泌は辞退しました。

 

すると、玄宗は「では、せめて、李亨と友達になってほしい」と言って、

身分や地位に関係なく、李亨と友達として接するように言いました。

 

玄宗に目をかけられ、李亨と友人となった李泌は楊国忠から嫌われました。

 

楊国忠の攻撃を恐れて、李泌は長安を離れて、

名山(四川省雅安市)で静かに暮らしていたんです。

 

安禄山が挙兵すると、李亨は李泌を呼び出しました。

 

 

李泌は将軍の任命から軍の配置まで、あらゆる戦略をたて、粛宗をサポートしました。

 

粛宗は李泌を右相に任命しようとしました。

右相は皇帝を補佐する最高位の官職です。

 

もちろん、李泌は辞退しました。

李泌に感謝の気持ちを伝えたい粛宗は、「では、何が欲しいのか」と尋ねました。

すると、李泌は「反乱を鎮圧したら、陛下の膝枕で寝たい」と答えました。

 

さて、そんな李泌は、安禄山を相手にどのような戦略をたてたのでしょうか。

 

・安禄山軍は本拠地・范陽に戦利品を輸送している

・蕃将を登用し、漢民族は高尚達数人だけである

・安禄山軍の中でも目立って手柄をあげているのは、

史思明、安守忠、田乾真、張史志、阿史那承慶の5人だけである

 

という事実を踏まえたうえで、

 

・李光弼が河北を、郭子儀が河東を攻めれば、

史思明と張史志は范陽、常山を離れることができないし、安守忠と田乾真は動けない

・となると、安禄山軍の中で動けるのは阿史那承慶だけ

・阿史那承慶を李光弼と郭子儀で攻めれば、

阿史那承慶も他の軍も疲弊して、最終的には安禄山を捕らえることができる

 

と戦略をたてました。

 

粛宗は李泌の戦略に賛成しました。

 

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