疑われていること、兵を訓練していることを知った哥舒翰は、
「1万3000人の兵をよこしてほしい」と申し出ました。
哥舒翰に1万3000人の兵を託すと、哥舒翰の兵力は増してしまいます。
杜乾運は哥舒翰を説得しようと、潼関に向かいましたが、
哥舒翰に斬られてしまいました。
その後も使者が哥舒翰のもとを訪れましたが、
哥舒翰は進軍することはありませんでした。
ある日、哥舒翰は使者に上奏文を託しました。
上奏文は、
「潼関を守っていれば、戦わなくても、安禄山に勝つことができます。
だから、兵をよこしてください」といった内容でした。
この頃、安禄山軍の武将・崔乾祐は、
「潼関から唐軍を動かさなければ、勝ち目はない」と焦っていました。
そこで、崔乾祐が思いついたのは、
兵の数を少なく、そして、弱く見せること。
兵を散らばせて、林の中に隠れさせました。
唐軍は崔乾祐の罠にまんまと引っ掛かり、
「安禄山軍は退却したようです」と、朝廷に報告してしまいました。
現場に足を運ぶことなく、朝廷で論じるだけの官僚達。
この報告を真に受けた楊国忠は、玄宗に、
「進軍するように、哥舒翰に指示を出してください」と言いました。
「安禄山は智略の持ち主。兵が手薄になっているのは、何か裏があるはずです」
と言って、哥舒翰は進軍を拒否しました。
李光弼と郭子儀は、
「哥舒翰は半身不随の身。潼関を守ることで精一杯です」
と言って、攻めではなく、守りが重要だとしました。
でも、楊国忠にそそのかされた玄宗は、哥舒翰に勅命を下し、
6月、哥舒翰は仕方なく、20万人の兵を率いて、潼関から進軍しました。
哥舒翰が軍を率いて、潼関から出てくるのを待っていた崔乾祐軍。
崔乾祐軍は唐軍を襲いました。
哥舒翰が率いていた20万人の兵は、あっという間に8000人にまで減少。
哥舒翰は残った8000人の兵と共に退却した後、
態勢を整えて再び安禄山軍に立ち向かいましたが、
部下・火抜帰仁が「安禄山に降伏しましょう」と進言しました。
哥舒翰は「最期まで戦いたい」と言いましたが、
火抜帰仁に捕らえられ、安禄山に降伏することになりました。
安禄山の前に引きずり出された哥舒翰は、
「陛下(安禄山)に降伏するよう、李光弼に手紙を書きましょう」
と言いました。
喜んだ安禄山は哥舒翰を宰相に任命し、
哥舒翰は李光弼に手紙を書きましたが、
李光弼から届いたのは「何故、降伏したのか」と、哥舒翰を責める返事だけでした。
「利用価値がない」と判断した安禄山は、哥舒翰を殺してしまいました。
756年10月、潼関は陥落し、安禄山軍は長安を目指しました。
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