史思明の敗北により、一時的に劣勢になった安禄山軍。
この時が唐軍のチャンスだったにも関わらず、
楊国忠の不要な進言によって、チャンスを逃してしまいます。
安禄山が大燕聖武皇帝を名乗り、改元したことに怒った玄宗。
封常清と高仙芝に代わって、潼関に向かった哥舒翰から、
吉報が届くのを待っていましたが、連絡は全くありませんでした。
それどころか、哥舒翰は潼関から動かず、
また、安禄山軍も洛陽から動きませんでした。
何故、封常清や高仙芝に同じく、哥舒翰も潼関から動かなかったのでしょうか。
この頃、安禄山軍は各地で略奪を行っていて、民から疎まれていました。
また、起伏の激しい安禄山は、部下から疎まれていました。
つまり、哥舒翰は「そのうち、安禄山軍は自滅する」と考えていたんです。
安禄山軍が長安に近付かないように、
潼関を守って、時間を稼げば、唐が勝つと思ったんですね。
楊国忠は哥舒翰に使者を送り、
哥舒翰に進軍するように言いましたが、哥舒翰は従いませんでした。
潼関に向かう前から、
病を患い、半身不随になっていた哥舒翰。
この頃、哥舒翰は耳が全く聞こえなくなっていました。
以前から、哥舒翰と仲の悪かった楊国忠は、
「哥舒翰が潼関から動かないのは、反旗を翻すつもりだからでは…」
と言いました。
確かに、哥舒翰は西突厥の出身で、漢民族ではありません。
楊国忠にそそのかされて、
「安禄山と手を組んだのでは?」
と疑う者まで現れ始めました。
哥舒翰は20万人の兵を率いています。
哥舒翰が反旗を翻したら、唐はひとたまりもありません。
楊国忠は哥舒翰の反乱に備えて、
1万3000人の兵を集めて、李福徳と杜乾運に訓練するよう指示しました。
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