哥舒翰の戦略 | 歴史で旅する

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年表⑤

 

史思明の敗北により、一時的に劣勢になった安禄山軍。

この時が唐軍のチャンスだったにも関わらず、

楊国忠の不要な進言によって、チャンスを逃してしまいます。

 

安禄山が大燕聖武皇帝を名乗り、改元したことに怒った玄宗。

封常清と高仙芝に代わって、潼関に向かった哥舒翰から、

吉報が届くのを待っていましたが、連絡は全くありませんでした。

それどころか、哥舒翰は潼関から動かず、

また、安禄山軍も洛陽から動きませんでした。

 

 

何故、封常清や高仙芝に同じく、哥舒翰も潼関から動かなかったのでしょうか。

 

この頃、安禄山軍は各地で略奪を行っていて、民から疎まれていました。

また、起伏の激しい安禄山は、部下から疎まれていました。

つまり、哥舒翰は「そのうち、安禄山軍は自滅する」と考えていたんです。

安禄山軍が長安に近付かないように、

潼関を守って、時間を稼げば、唐が勝つと思ったんですね。

 

楊国忠は哥舒翰に使者を送り、

哥舒翰に進軍するように言いましたが、哥舒翰は従いませんでした。

潼関に向かう前から、

病を患い、半身不随になっていた哥舒翰。

この頃、哥舒翰は耳が全く聞こえなくなっていました。

 

以前から、哥舒翰と仲の悪かった楊国忠は、

「哥舒翰が潼関から動かないのは、反旗を翻すつもりだからでは…」

と言いました。

 

確かに、哥舒翰は西突厥の出身で、漢民族ではありません。

 

楊国忠にそそのかされて、

「安禄山と手を組んだのでは?」

と疑う者まで現れ始めました。

 

哥舒翰は20万人の兵を率いています。

哥舒翰が反旗を翻したら、唐はひとたまりもありません。

 

楊国忠は哥舒翰の反乱に備えて、

1万3000人の兵を集めて、李福徳と杜乾運に訓練するよう指示しました。

 

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