鳥羽の里民謡集
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手前の寄せ棟の大きな屋根が鳥羽熊が眠っている通因寺、三河湾に渥美半島を望む
河をわたり野を走り山の裾野をすぎれば、
そこははずの浜
まもなく
こどもの国に
こどもの国のゆるキャラ
みどぽん
(名鉄西尾.蒲郡線)こどもの国駅
自分の墓を拝んだ男
鳥羽熊は、ときどき目をつむって、
じっと考え事をしていましたが、
ある日、子分たちを呼び集めて
言いました。
通因寺本堂
「おれは自分の墓を建てるぞ」
「親分、縁起でもねえこと言わん
でくだせえ」子分たちは、じょうだん
だと思い、相手にしません。
鳥羽熊は村の長老に相談してみました。
「そんなピンピンしとって何を言わっしゃ
る。お墓に入るのはわしが先じゃよ」
長老にも笑われてしまいました。
それならと、次は通因寺へ出かけ
て行きました。
おしょうさんは話を聞くと、鳥羽熊
をじっと見つめました。
「なぜ、そんなに急いで墓を建て
たいのじゃ」「お、おれは死ぬのが、
う……、おそがい。墓を建てれば、
あ……、気が楽になるかもしれん」
鳥羽熊は、うつむいて、ぼそぼそ
と答えました。
「それに、ええっと、おれは自分の
墓を拝んでみてえ。おれが拝めば、
子分たちも拝む……」
「ふん、ふん、それから」
鳥羽熊の墓は明治三十六年に建てられた。
資金は有志者から集められ、当時の金で
百五十円もの大金(家を建てるのに二、
三百円の時代)だったという。
おしょうさんは、鳥羽熊の顔をの
ぞきこみました。
鳥羽熊は、きまりが悪そうでした
が、顔を上げ、少し体をそらせて、
大きな声で言いました。
「お、おれは、おれの墓が小さなも
んじゃ、がまんできねえ。
おれの墓は、どっしりと大きなもん
でなくちゃならん。
だれが見ても、『さすがは天下
の鳥羽熊の墓だ』と、ほめてくれるも
んでなくちゃならん。おれは、自分の
墓が自分に合ったもんかどうか、
この目で見ておきてえ」
「わっはっはっは。それでこそ鳥羽
熊じゃ」 おしょうさんは、鳥羽熊のか
たをポンポンとたたきました。
「よし、よし。寺の空いている場所に
建てるがいい。自分の墓に手を合わ
せておると、思わぬ長生きができるか
もしれんぞ」 鳥羽熊は、おしょうさんが
言われたことを子分たちに話しました。
今度は、子分たちも反対しませんで
した。それどころか、親分のために、
寄付を集めて回りました。
1984年7月撮影 通因寺提供
鳥羽熊は、その五年後の明治四十一年に
81歳の長寿で亡くなっているが、葬式もまた
盛大を極めたといわれている。 なお、現在
の墓は、石組みの土台を取り払って低くした
ものである。
しばらくして、大人の背たけの倍ほど
もある、とてつもなく大きな墓ができま
した。「これでいい。うん、これでいい。
上で合わせて拝みました。
お墓の前に任侠清水次郎長 十一人衆
明治3年(1870)ごろ浜松五社神社にて?
前列左から、増川の仙右衛門・桶屋の鬼吉・清水次郎長・当目の岩吉・田中の啓次郎・小走の半兵衛
後列左から、辻の勝五郎・大政・関東の丑五郎・寺津の勘三郎・鳥羽の鳥羽熊・清水の岡吉三保の松五郎・小松村の七五郎・大瀬の半五郎・尾張大野の鶴吉・伊達の五郎
平井の雲風亀吉に対する襲撃事件
三州吉良荘は幡豆の里の鳥羽の迎(むかえ)に「鳥羽熊」と呼ばれる大男がいました。 1863年の「平井の雲風亀吉
に対する襲撃事件」後、清水次郎長の子分になった。(36歳)
京都の寺田屋騒動の起きる一年前の出来事
である。戦闘のすさまじさから言って次郎長の
出入りの中で最大と言われている、
この時、大政らの持って来た槍は九尺足らずで
あった、そこで一丈ニ尺の槍と突き合わせ手見
ると、戦うには一丈ニ尺の長槍の方が有利であ
る事が判った、そこで、三州吉良荘は西尾で一
丈ニ尺の棒二十数本を買わせ、槍の穂先を付け
替え、約束の三日の日暮れ迄待つ事にした。
次郎長は、形の原斧八・吉良の仁吉・土呂熊・
鳥羽熊・桃太郎・竜吉・丹蔵・兵吉・小市など新
手十人の助っ人を得て、総勢三十四人で平井
「小坂井」の雲風の亀吉の家へ、殴り込みを掛
ける準備をした。
参考文献 村上元三 次郎長三国志
資料提供 通因寺
民話集 むかしむかしはずの里より
ご縁があり、訪問頂き
皆様に ありがとうございます。
吉良荘にしお古の案内人ようさん