体調を崩していましたが、ほぼ回復しました。
島津勢の場合を見ると、休戦期間中に薩摩の国元では、石田三成の配下の検地衆によって、厳しい「太閤検地」が行われていた。
検地の結果、島津の家臣の所領は大幅に削られ、その分は島津氏のもとに集められて、後日の論功行賞にあてられることになった。
島津の家中はこの恩給地をめざして猛烈に戦った。
慶長の役で島津勢が奮戦し、「鬼島津」の異名をとった源泉は、太閤検地による知行の配分だった。
朝鮮にあった諸将が数を競うようにして鼻を集め、送ったのにはこうした理由があった。
なんの目的も感じられぬ戦闘に、海を越えて駆り出された兵士たちの自暴自棄の心境がそこには反映しているようだ。
かすめる財宝にかぎりがあれば、それとならんで金になるのは人間である。
倭寇の頃から、人さらいは日本人の習いだった。文禄の役の時でも、連行された捕虜はおどろくほどの数に達していたという。
今度の慶長の役では、この人さらいはさらに大々的に行われた。
連行されたのは主に農民であり、耕す男を失った日本の田畑を耕作させ、さらに代わりに日本の農民を兵として朝鮮を侵略するのだ、という。
文禄の役の時に連行された者は半ば日本人と化していて、帰国もあきらめていたという。
日本国内に抑留された者はまだ帰還のチャンスがあった。慶長十二年(1607)、徳川政権と朝鮮との国交が回復されたとき、捕虜の送還が条件となり、約五千人が送還された。
しかし日本に連行された捕虜は二万から三万と見積もられている。また、捕虜の中には長崎からマカオに売られた者も相当いたそうである。
慶長の役における朝鮮側の反撃の主役をなしたのは、今度も李舜臣だった。
九月に李舜臣は、再び司令官の職に戻った。元均の敗戦によって手元に残された兵船は、わずか十三艘だったが、その中に亀甲船があったのが救いであった。
九月十四日、鳴梁で日本水軍との決戦が行われた。鳴梁は海峡が狭く大船の運用が困難であるので、日本水軍は百艘を越える中型船で押し寄せた。
舜臣は潮の流れが変わるのを見計らって攻撃をかけ、激戦の末、大勝を得た。
日本側は三十一艘を失い、大将の一人来島通総は戦死し、藤堂高虎も負傷した。この戦いによって、西海岸の制海権は朝鮮側に保持されるのである。
これより前、九月はじめに大邱から全州と全羅道に攻め込んでいた毛利秀元と黒田長政の軍約三万は、忠清道天安を占領し、漢城から出撃してきた明の将軍、副総兵解生の軍と稷山において激突した。
戦闘は一進一退であったが、これで日本軍の北上の勢いは止まった。
九月十四日、日本軍は南方に撤退を開始した。日本軍は慶長の役では、ついに漢城に達することはできなかった。
南下した日本軍は海岸の城に拠って防衛することとなる。この防衛戦の最大の激戦となったのが、加藤清正の籠った蔚山城である。
島津義弘画像(朝鮮の役・関ヶ原の戦いで活躍した:青年期か)
「宇喜多秀家:蔚山城の戦い」へ続く