福谷(うきがい)城址・祐福寺 | 散策侍

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様々な歴史建造物を建築目線で再確認するブログです。たまに美味しいものなども・・・

明けましておめでとうございます!クラッカー門松

本年もマニアックに、変態チックに攻めて参りますので何卒宜しくお願い致します。てへぺろ

 

という訳で今年の一発目は愛知県みよし市の福谷(うきがい)城址と、愛知県愛知郡東郷町の祐福寺をご紹介します。

 

下矢印福谷城址は東名高速道路・東名三好I.Cを降りるとすぐ脇にありますが、ナビでは出てきませんので福谷寺を目印にすると分かりやすいかと思います。周辺は道が狭いので歩きます。走る人

 

 

下矢印小高い山の上に城址があります。尾張と三河の境に位置して飯田街道に抜ける拳母街道を押さえ、境川と小石川の合流する丘の上に建てられてた要害なのです。

 

 

下矢印現在整備されているのは北側のⅠ部分(赤い部分)、現在地の周辺のみです。

 

 

下矢印堀だったと思われるところとはかなりの高低差があります。びっくり

 

 

下矢印北側は城山保育園になっており、この道も堀跡と思われます。

 

 

周辺は住宅や空き地、畑に開発されていてほとんど原型を留めていませんが縄張図を参考に想像を働かすことが楽しいです。口笛

下矢印こちらは元々の虎口ではありませんが登ってみます。

 

 

下矢印登るとただの草村がありますあせる奥の若干高くなっているところは土塁跡です。発掘調査も行われており、当時の茶碗、すり鉢、鍋などの生活道具が出土しております。

 

 

ここでお城の簡単な詳細を。築城者や築城年数がはっきりとしていませんが室町後期のようです。1556年に織田信長と今川軍の小競り合いがあった場所とされており、カブト攻める織田軍は柴田勝家、城側の今川軍は松平麾下の酒井忠次です。

 

桶狭間後に不要となったようですが時期などはっきりとわかっていません。ただ特筆すべき点は柴田勝家が稲生の戦いの前に信長軍の攻め手として従軍しているということです。稲生の戦いでは勝家は信長の弟、信行の家臣として信長とは敵同士で戦うことになるのですが、この時は信長に従っているのです。(振りかもしれませんが)ニヤリ

 

 

下矢印I部分から道を渡り南のⅡ部分へ分け入ってみます。すると石垣を発見!

大発見かと思いきや、ここは明神様があった場所だったそうで(現在は廃屋になっています)、石垣は明神様の造営時のものと思われます。えー

 

 

その後の研究だとこの明神跡の曲輪の方が建築年数は昔だそうで、最初に見た城址は戦国期に尾張と三河の緊張により、後から造られた曲輪だそうです。総じてかなり広い城塞だったことがわかります。

廃屋が怖いので早々に立ち去ります。汗

 

 

福谷城址を後にして次はお隣、東郷町の祐福寺に向かいます。車

実は緑区、天白区、東郷町、日進市、豊明市は子供の頃に遠駆けと称して自転車で走り回った地域なのです。自転車時には自転車を担いで川を渡ってみたり、勝手に家と家の隙間に入っていったりと、「子供」という免罪符を駆使して自由に動き回ったものです。てへぺろチョキ

 

下矢印こちらが祐福寺の勅使門です・・・って工事中でした!笑い泣き

 

 

下矢印まあ、こんなこともあろうかと以前撮っておいた写真をアップします。パー

杮葺きで1528年に後奈良天皇の勅願綸旨のために造営されたそうです。1844年にも奉修した記録が残されているそうです。

 

 

下矢印こんな片田舎に(失礼!)菊の御紋があることに違和感を覚えますが、当時としては大きな寺院だったようで、創建は1328年、近くの道場をこの場所に移したことが始まりだそうです。25もの寺院を従え、後小松天皇、後柏原天皇、後奈良天皇の勅願寺となっていました。

足利6代将軍の義教も東国への往来の際に宿泊したそうです。

 

 

下矢印平針街道(県道56)に接する総門跡です。

 

 

下矢印勅使門から参道を望みます。

 

 

下矢印1843年完成の白土塀です。町指定というのが渋いですネ。

東郷町はみよし市にもくっつかず、名古屋市にも囲われず、長久手市にも編入せず、日進市と同化することもなく愛知郡東郷町で頑張っているので応援しています。旗

 

 

下矢印お寺の塀にも菊の御紋があります。

 

 

下矢印山門も立派です。

 

 

下矢印浄土宗なので如来様でしょうか。説明などがありませんのでよくわかりません。あせる

 

 

下矢印流石は勅願寺。天井は格式が高い折上格天井になっています。ポーン

中央部がもう一段凹んでいると二段折上格天井といって二条城や江戸城などワンランク上の格式となります。

 

 

下矢印廊下も修行寺のような感じで武士のようにドカドカと音をたてて歩いてみました。プンプン

 

 

 

下矢印ご位牌でしょうか。葵の御紋があるので尾張徳川家に所縁のある方かもしれませんが。こちらも説明などがないのでわかりません・・・

 

 

下矢印正面の屋根にも葵の御紋があります。織田信長、信忠親子や徳川家康、尾張徳川家の庇護が厚かったようです。また岡崎と名古屋を結ぶ平針街道にも接しているので家康も来たのかもしれません。

 

 

下矢印お庭に今川義元本陣跡があります。桶狭間の前夜、今川軍の一行がここに泊まったそうです。当時は境川を越えて尾張に入ったところですので警戒もしていたことと思われます。因みにここから南へ4km程のところに沓掛城があり、そこも今川軍が桶狭間前夜に宿泊したと伝わるところです。沓掛城の近くに提灯山という地名がありますが、物見の今川軍の部隊がその高みで宿泊したという言い伝えがあります。

 

勅使や足利将軍や今川軍が通ったということは鎌倉往還道が通っていたのでしょう。岡崎城からみよし市を抜けてこの地へ至り、祐福寺で南下して沓掛に入り、二村台を通っていたようです。緑区に鎌倉台という地名もあります。

このように点と点が繋がって面になり、さらに面と面の高低差などが絡むと大変面白いです。音譜ひらめき電球

 

 

下矢印祐福寺を南下すると沓掛城址ですが西へ向かうと平針街道となり一里塚があります。平針街道は赤池の辺りで飯田街道に合流しています。

 

 

下矢印説明書きが面白いので是非読んでみて下さい。ウインク

 

 

下矢印こちらがその榎です。

脇街道に、しかも上下対で残っているのは珍しく案外貴重なものが身近にあったのだなァと今更ながらに感じております。

 

またまた因みにですが沓掛城の北に勅使池という大きな溜池がありますが、この勅使とは祐福寺に来られた勅使と同じ左中将経広卿なのです。沓掛一帯は肥沃な田畑が広がっていましたが(今も・・・)、この溜池が氾濫すると多大な被害を被るという陳情が寄せられ、祐福寺と時を同じくして池の改修工事の監督に勅使として来られたのです。

 

ここまでありがとうございます。お願い

極めて狭い地域でのマニアックな説明となりましたが如何でしたでしょうか…。

他地域の方にはピンとこない感じで恐縮ですが、名も無い歴史もまた表を解き明かす裏のカギとなることもございますので、今後も点から点へ、面から面へと繋がる遺構や城跡をご紹介できればと思います。

 

ではまた次回バイバイ

 

下矢印*正月にショッピングモールの中の文房具店で見つけたので購入しました。厚紙なので折りたたむことができ軽くて重宝します。グッ

1個¥450くらいだったかと。