こんにちは!
今回も先日の続きからご紹介します。
気賀の井伊直虎・大河ドラマ記念館を後にして車で県道320を北へ向かい井伊家の菩提寺である龍潭寺へ向かいます。井伊直虎ブームに隠れてあまり知られていませんが実は宗良親王(むねながしんのう)の菩提寺でもあるのです。彼は後醍醐天皇の皇子で南朝方として足利尊氏の北朝方と戦います。南朝の重鎮、北畠親房から伊勢~福島へ移動要請があり、その途中で船が座礁しこの地に逗留して時の当主、井伊道政の井伊谷城へ迎えられます。その後は信州へも移り、各地で南朝方との戦いに明け暮れ信州の地で亡くなります。
龍潭寺の開山は733年、行基によって創建された古いお寺です。
ドラマにも度々登場するお寺で、最近は直虎ブームで訪れる人がかなり多いとのことです。平日は観光バスツアーで来るご年配の方が多く、週末や休日は若い女性も来られるそうです。
私が訪ねた時も平日でしたが近くの駐車場は観光バスで埋まっており少し離れた駐車場に止めました。
南側から順番に攻めていきます。お土産屋さんの横の参道入口におある案内看板です。
こちらは大門(山門)です。「萬松山」と書いてあります。
1656年の建築です。県指定文化財ですが国重要文化財でも良さそうな気がします。勉強不足ですね。
三門脇の土塀と石垣です。龍潭寺は、次回紹介する井伊家の本拠地、井伊谷城の南に位置しており、有事の際には要塞として機能するようにもなっていたそうです。龍潭寺を囲う道路は堀で(空堀だったかもしれませんが)、本堂が一番高い位置にあり、石垣も残っています。
山門をくぐると石垣に囲まれた桝形のような空間になっています。
野面積(のづらつみ)です。
山門から北へ上がる階段です。
山門から西へ上がる階段です。
西の階段を登ると「子育て地蔵」と、ご神木の梛(なぎ)の木があります。どちらも虎松(直政の幼名)の実母が建てたものと伝わります。無事に成長できるようにとお母様がお祈りしていたそうです。
ご神木の梛の木はとにかく大きいです。
色々な樹木があるなかで、何故あまり聞きなれない梛の木を植えたのか疑問に感じたので調べてみました。梛は熊野の御神木だそうで、当時は災厄除けに使用されたそうです。また葉っぱの裏も表も同様に綺麗であるために裏表のない人間に育つように願ったという説もあります。
因みに、梛は広葉樹かと思っていましたが針葉樹なのだそうです。
続いて、こちらは仁王門です。額には「護法」と書かれています。
仏法を守るという意味ですね。
仁王門の外側は対で金剛力士像があり向かって右が「阿像」、左が「吽像」です。人は「阿」(あ)といって生まれ、「吽」(うん)といって亡くなることから「阿吽の呼吸」といいます。息が合っていることを阿吽の呼吸といいますが、元は、自然の摂理、生死などを表すことから、極自然なこと、あたりまえなこと、を指すのだそうです。「あの夫婦は阿吽の呼吸だな」なんて言うときは、「あの二人が夫婦でいることは自然なことで、お互いが生前から一緒になることが当たり前であったかのような存在なんだ」という、言葉にすると哲学的な感じになりますが、そんな感じですかねぇ。
門の内側の狛犬は仏法を守る番犬のような役目だそうです。仏法を破ったり、邪(よこしま)まな気持ちがあると噛みつきにくるそうで・・・
三門と仁王門の間の空間です。右側に仁王門、本堂があり、左側は三門があるスペースです。
こちらは鐘楼です。
こちらは旧鐘楼です。1631年建立のもので龍潭寺境内の中では最も古い建物です。
旧鐘楼には観音様がお祀りされています。
旧鐘楼の柱です。虫食いが目立ちますので一部は接ぎ木してあったりします。柱を1本交換するのではなく使える部分は使って最小限の修理にとどめる技術は素晴らしいですね。
ついつい、こういったところに目が行ってしまいます。
このような加工(手刻み)ができる大工さんも少なくなっていますが、技術の継承はしていきたいものです。
こちらは庫裡(くり)という建物で、昔の台所を意味します。現在のお寺ではご住職の住居として使われていることが多いですが、規模の大きな寺院になると修行僧の台所兼宿坊として使われたり、お寺で使う道具の倉庫にしたりもします。現在の龍潭寺では拝観受付場となっています。
庫裡の入口に結構な段差があります。建物は殆どが江戸時代初期のものですのでバリアフリーにはなっていません。
それでもお寺や神社などで転んで怪我をしたという話はあまり聞きませんね。敷居や段差がある程度高いときは人は意識して跨ぐため躓かないそうです。段差解消のためなるべくフラットにしたときの1~2センチの段差によく躓きます。これは段差があるという意識や注意が薄れて慣れてきたときにおこるのです。10センチや20センチの段差では怪我をせず、1~2センチの段差で足の指の骨を折ったりしますから敢えて段差を残すことも体と脳のためにはいいのかもしれません。
続いて隣の本堂です。1676年の建立です。
ご本尊は虚空菩薩様です。御簾がかけてありますので直接は拝見できません。スケベ心が高じてローアングルから撮りたい衝動にかられますが、やはり畏れ多いのでやめておきます。
本堂内の襖です。かすれていますが昔のままであることがわかります。
こちらは「丈六の釈迦牟尼佛」です。ところどころ黒くなっていますがこれは、明治初期の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)によって仏像や寺院が破壊されかかったときの子供の落書きの跡だそうです。大仏殿が壊され、この像ももう少しでゴミになってしまうところを本堂へ移して助かったそうです。今では手を合わせる人が絶えません。
畳の敷き方がかわっています。
建具も渋い感じです。
建具には番号が書いてあります。建具の上部に接ぎ木をして外れないようになっていますね。古いので木がすり減っているのと、敷居と鴨居が歪んでくるためこのような工夫がされているのです。
本堂の西側隅に祀られている十一面観音様の「ほほえみ観音菩薩」です。江戸の初めに琵琶湖で漁をしていた漁師の網に観音様がかかり、彦根の井伊のお殿様に献上したそうで、それがここ龍潭寺にお祀りされています。織田信長が比叡山を焼き討ちにしたときに周辺のお寺も焼かれましたがそのときに仏像や貴重な宝物などは被害にあわぬように琵琶湖に沈められたそうです。水災、火災に合いながら口元がかすかに微笑んでおられることに感銘を受けます。
ちょっとわかりにくいでしょうか?微笑んでおられますが・・・
井伊家で使用されていた籠です。
本堂から南側のお庭を望みます。
毎日の手入れが行き届いていて大変美しいお庭です。
南側から見た本堂です。
お庭の隅にも石垣を発見。
本堂を抜けて隣の開山堂へ移る渡り廊下です。裸足で歩きたいです。
こちらは北側にある御霊屋です。井伊家代々がお祀りされています。
井伊家の家系図です。ご初代から現在に至るまでです。現当主は直岳さんです。井伊家は徳川家臣の中でも一番出世したのではないでしょうか。幕末の井伊直弼まで大老を4人輩出していますからね。
カメラを突っ込んでまでは畏れ多いので写せる範囲から。
こちらも本堂内の襖です。
こちらが有名な北側の庭園です。本堂にたくさんの人が座っているのがわかりますか?
石一つ一つに意味があるそうです。
静寂の中に時間だけが音もなく流れていきます。
これからの季節はさらに人が増えるそうです。
中央に1個だけ石がありますが、この石に座り庭と向き合って瞑想するための石だそうです。庭は降りることはできませんのでご注意を。
造ったのは小堀遠州と伝わります。この小堀遠州という人物、茶人、建築家、文化人としてよく名前を聞きますが、じつは大名なのです。
小堀政一、生まれは滋賀県で、父の隠居後、幕府の要職につきます。
備中松山藩2代藩主、近江小堂藩初代藩主を務め、関ケ原後に駿府城の普請大名になります。駿府城の普請を担当したことから遠州の名で呼ばれるようになったそうです。茶人としては古田織部の弟子となり、関ケ原後の天下泰平にあってその才能をいかんなく発揮した人物として幕府からは重宝されました。
土塀の瓦には皇族の宗良親王ゆかりでもあるので菊の御紋が入っています。
西側隅にお墓があります。
向かって右側が初代、共保公、左が、直虎の父で桶狭間で戦死した直盛公です。
お墓の左、奥から順に直盛妻、直虎、直親、直親妻、直政となっています。こうして一族揃って安らかに眠ることができるのがせめてもの幸せかもしれません。
向かって左側は特に記されていませんが井伊家の方々だそうです。他に、小野家代々の墓、奥山家、中野家、歴代ご住職のお墓などがあります。残念ながら小野政次のお墓はありませんが。
お墓の手前には柵があり近づくことはできませんので柵の外から手を合わせました。
こちらは松岳院跡地です。直虎が母、松岳院と暮らし、晩年を過ごしたところです。直虎はここで亡くなったそうです。江戸時代の絵図には建物が描かれています。
龍潭寺如何でしたでしょうか?平日なので空いていると思っていましたが結構団体客が多くて驚きました。余談ですが南側入り口のお土産屋さんの抹茶レモンなる飲み物がさっぱりして美味しかったです。
次回は気賀シリーズ最終回、井伊谷城と共保公の井戸をご紹介します。