法律に書いていないとしてもいいのか? | 井上政典のブログ

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 歴史ナビゲーターの井上政典がお贈りする祖国日本への提言です。
 
 ご意見は賛成反対を問わずどんどん書いてください。

 ただし、社会人としての基本的なマナーは守ってくださいね。

 東京都知事選挙の掲示板のことでどこかの動画で私の文章の書き方が悪いと批判していましたが、文章の書き方は人それぞれ、ここは論文ではないし、論旨や主張が伝わればいいと思って、若干緩めの文章を書いていますので、余計なお世話ですね。

 

 まあ、動画に取り上げられるくらいちょっとは注目されているのかと思っているのですが、でも、私の文章で最も主張したいことは、タイトル通りなのです。

 

 「もったいない」という日本語があります。

 

 これは英語には訳せません。他の言語にも訳せないと聞いています。なぜなら、「もったいない」の概念がないからです。

 

 言語は概念を説明する道具であり、その概念が存在しなければ言語で説明も不可能なのです。

 

 ケニアのワンガリーマータイ女史が国連でこの言葉をそのまま「mottainai」と発音し、話題になりましたが、この時いろんな英語の上級者が訳語を探しましたが、見つからずマータイ女史はそのまま「もったいない」と発音したのです。

 

 読者の方でこの「もったいない」の英訳を考え付いた人はぜひ教えてください。

 

 英語の辞書には「mottainai」で書いてあります。

 

 Too good too waste とグーグル翻訳を訳していますが、たとえば、あこがれの人から「私がこうしているもあなたのおかげです」と言われたら、「そんなもったいない」と言うでしょうが、「捨てには良すぎる」直訳 で意味はあっていますか?

 

 全く違うでしょう。 「そんな言葉を私にかけていただき、本当にいくら感謝してもしきれません」という意味が含まれるでしょうから、Too good too wasteでは表現できませんね。

 

 この「もったいない」という日本語の独特な表現は、「すべての物に命(いのち、みこと、かみ)が宿るという「八百万の神々」の考え方からきているのです。

 

 私たちの肉体は神様から預かっているものです。魂をそこに入れて人間は生きているのです。この「生きる」も、息(いき)をし続けるという語源があり、人生とは息をしている間のことを指すとお釈迦様も言われています。

 

 借り物の肉体が滅びても魂が残ることを重視してきた日本人は、この世の命よりも名を重んじてきた誇り高い民族なのです。だから、特攻隊の若者たちが必ず死ぬという出撃前に笑顔で写真に納まり、私たちに「後のことは頼んだよ」と語りかけてくれているのです。

 

 自分の命だけが大事と戦後教えられてきた人たちには理解できないでしょうが、私たち日本人のDNAに潜んでいるこの感覚が目覚めた人たちは、英霊の顕彰をしなければならないと考えるのです。私もその一人です。

 

 ところが、そういう感覚のない人たちは、「自分の命を捨ててまで国家のために尽くすなんてナンセンス、古臭いよね」と鼻で笑うのです。その行為自体がとても失礼でまた自分の考えが浅いということを大音量のスピーカーで世間様に知らしめているということをわからない人たちです。

 

 「もったいない」は人間や物に与えられた命の使い方を間違っている時に使うのです。だから椅子は座ってもらうのが使命ですが、椅子の上に立つと「椅子の上に立つな」と叱られませんでしたか?

 

 また、「机の上に座るな」とか、「座布団の上に立つな」とか聞いていないのでしょうか?

 

 それはその椅子や机や座布団に与えられた使命の使い方が悪いから叱られるのです。

 

 私たちの命もそうです。この世に生まれてきた限りは必ずその命の使い方、意味があるのです。それを無駄にしないで行きなさいよというのが「八百万の神々」という概念なのです。

 

 ペットボトルの水を半分しか飲まないで捨てる行為は、水に与えられた人に飲んでもらうという使命を果たせないので「もったいない」のです。その水に失礼なのです。だから私はよほどのことがない限りは、すべて飲み干します。

 

 ただ、口をつけたペットボトルの飲料を車の中に入れたまま、数時間経過すると雑菌が繁殖しますので、ご注意を。特に夏場はあっという間に増えます。いつものようにそれを飲んだ後に、数時間後猛烈な下痢に見舞われて以来、車等に放置した飲み残しはもったいないですが、飲まないように心がけています。

 

 この考え方は、以前狂牛病で数万頭が察処分された時、牛舎の経営者が泣きながら、「牛たちがかわいそう」と言っている時に気が付きました。これらの牛たちは肉牛でもう少しすれば殺されて、食べられる運命にある牛たちです。

 

 しかし、牛舎の経営者は人々においしく食べてもらえるように心を込めて飼育してきたのに、狂牛病のために無残に殺されていく風景を見て、泣いておられたのです。

 

 食べられることが使命、それもおいしく残さずに食べた貰えるのが大事なのであり、ただ屠殺されて土に埋められるために生まれてきたのではないからです。

 

 私は悩み相談をされたときに言うのは「君は何のために生まれてきたのかを考えたことがあるか?」です。なんかの映画のタイトルのようですが、まさに私たちは「なんのために」を考えて行動することが求められているのです。

 

 当然、人生のステージにおいてその「なんのため」というのが変化していきます。

 

 40台のころは、3人の子供たちを立派に育て上げるためにという切実な理由がありましたし、でも心の中では、一人でも多くの方を生命保険によって一番困った時に助けになることを常に考えて行動していました。

 

 60台になると子供もそれぞれ家庭を持ったし、その孫たちに誇れる祖国を残してあげたいと思って活動をしています。

 

 話が主題から大幅にそれてしまいましたが、選挙の掲示板は選挙に立候補した人たちの顔と名前を当選を目指して売り込むもので、自分の売名行為のためにするものではなく、ましてやそれを売ってお金を稼ぐものではないのです。

 

 掲示板を立てるのも税金で賄われます。それを当選する気もない人が出たりしないために供託金300万円を支払うのですが、今回は転売屋の立花孝志氏がそれを売って選挙にも出ない人の売名行為のために使っているのです。

 

 選挙用掲示板の使命をないがしろにしていますよね。私はその行為を「もったいない」行為だと思いますし、選挙への冒涜だと思うのです。

 

 皆さんはどう思いますか?

 

 いちいち法律を作って罰しなければならないような民度の低さを日本人は持っていなかったはず。ならばそういう行為を識者がちゃんと批判しておかしいよと諭すことこそが日本の民度を再び上げることになると思っております。