昨日のブログで小泉氏のことを書こうと思っていたら、小沢氏のことでほとんどが終わってしまったので、今日は小泉氏のことについて書きます。
小泉氏の祖父の又次郎氏は逓信大臣を務めたほどの人でしたが、全身に刺青をするほどの豪快な人だったと言われています。大衆にも絶大な人気があり、その影響を純一郎氏も大きく受け継いでいると思います。
父の小泉純也氏(旧姓鮫島)は、家が貧しく政治家の書生として学校に行かせてもらい、小泉家にも出入りしていました。それも下働きをしており、ある亡くなった政治評論家はその時のことを「小泉家の下足番をしていた」と言っておられたのを聞いたことがあります。
純也氏はハンサムだったので小泉又次郎の娘の芳江と恋に落ち、又次郎から反対されたために駆け落ちして恋を成就します。
逆玉で政治家となり、戦前民政党から衆議院議員になり、戦後は又次郎氏とともに公職追放に合いますが、その後改進党→日本民主党に所属、1955年の合併で自由民主党が誕生し、そこに所属しました。
藤山愛一郎の派に所属し、防衛庁長官を拝命します。この時にカーチスルメイという日本本土を無差別爆撃した将軍に、航空自衛隊の創設に尽力したと勲章を授けるように推薦しました。
この時に先帝陛下は内閣の助言によっての国事行為を淡々と果たされますが、授与式の際には欠席をされています。やはり自分の赤子を焼き殺した作戦を指揮した男に勲章を自らの手で渡したくなかったのでしょう。
1969年に純也氏が急逝し、その地盤を引き継いで純一郎氏が出馬、10万以上を得票するが惜敗し、浪人生活を福田赳夫氏のものとで政治家見習いとして福田家の下足番をして過ごします。
福田赳夫氏も小泉純一郎氏の素質を見抜き、意気地があり、しっかりしていると評価していました。
1972年の衆議院選挙で初当選し、その秘書に長年連れ添う飯島秘書官がなります。大蔵委員会に所属し、同期の山崎拓・加藤紘一と仲良くなり、のちにYKKが結成される。
結婚し、三男を設けるが離婚します。これには小泉氏の秘書であり小泉家を仕切っていたお姉さんの存在が大きいと言われています。
1988年竹下改造内閣で厚生大臣に初入閣。しかしリクルート事件で竹下内閣が倒れ、後任の宇野総理も指三本(当時の人は知っていますね)事件ですぐ終わり、在任期間は二か月ほどでした。
1991年に経世会の支持を受けている海部俊樹総理が再選を目論むのに対し、山崎、加藤、小泉のYKKが中心となって反主流派をまとめ海部総理再選を阻止します。
そして1992年に宮澤喜一内閣が誕生すると郵政大臣に就任します。
昨日のブログをお読みなった人はここで小沢一郎氏との接点に気づかれるはずです。ここでは丁々発止と渡り合う政敵同士だったのです。
小沢氏は経世会の会長代行、片や小泉氏はそれを攻撃する与党内野党的立場だったのです。当時は実弾(札束)が乱れ飛んだとハマコー氏の本や当時のことを知る政治家のお話が山というほど残っています。
小泉氏は郵政改革を主張しており、その当人が郵政大臣になったものだから省内での反発は激しく、登庁して退出するまで誰も大臣室に近づかなかったと言われています。それでも耐えに耐えて、その恨みを自分が総理になった時に郵政民営化で果たすのです。
ここには郵便事業が戦後の日本経済の発展に大きく寄与した財政投融資の存在が大きく、郵政省は、郵便事業、簡易保険事業等で集めた資金を政府の財政投融資に渡し、何の運用努力もせずに固定金利で運用していました。
日本が経済復興する際はこの財政投融資(財投)からの資金が大きな力を発揮しますが、90年代になると民間の資金力も大きくなり、財投の意義が問われている時でした。
私も生命保険会社に勤務しており、郵便局の簡易保険は1000万の保障で一日当たり1万五千円の入院給付金が付けられることから民間の生命保険の最大のライバルでした。簡易保険は郵政省の管轄、民間の保険会社は大蔵省の管轄で、モラルリスクという故意に入院して入院給付金をだまし取る事件が多発していたために、民間の保険会社は一日当たり5000円の入院給付金をつけるように指導されていたのです。
これはあまりにも理不尽で、モラルリスク上の事件は簡易保険の方が圧倒的に多かったのに、民間だけが指導を受けるのはおかしいと当時の私は小泉さんの郵政改革を支持していました。
1993年宮沢内閣の不信任案決議に小沢氏らが造反し賛成したため、自民とは1955年から続いていた政権の座を滑り落ち、野党になります。その時の総裁が河野洋平氏です。
自民党は総裁になった人が総理になるのですが、この河野洋平氏と民主党政権ができた時の谷垣氏の二人だけが総裁だけで総理にはなっていません。谷垣氏は自転車事故を起こすまで安倍総理から篤い信頼を置かれ幹事長など要職を歴任していましたが、河野洋平氏は与党返り咲きの奇策である社会党との連立政権で自民党員であることを忘れたのか、社会党の村山富市総理と一緒になって、河野談話、村山談話で後の大きな禍根を残します。
また最近でも南京事件のことに触れたり、一貫して自虐史観を盲目的に信奉しています。
1994年に悪夢の村山連立内閣が発足しますが、95年に小沢率いる新進党に敗北、河野氏は総裁を辞任します。後任に国民的に人気の合った橋本龍太郎氏が総裁となり、自民党が捲土重来を図ります。
その際に無投票は避けなければと小泉氏が勝算もないのに総裁選に出馬します。当時総裁選に出るには推薦人を30人集めなければなりませんが、その推薦人の中に安倍晋三氏や山本一太氏や中川秀直らが当時の若手議員らがいました。
翌年村山内閣が終わり、橋本龍太郎内閣が誕生し、厚生大臣に返り咲きます。
1997年、厚生省幹部と参議院厚生委員会理事とともに食事をとっていたところ、村上正邦参議院幹事長がこれを問題視、理由は村上氏を通さずに参議院厚生委員会理事と厚生省の幹部が会食していたということでした。
このころまでは参議院の独立性がまだあったと思われます。
この村上氏が自民党参議院幹事長は村山内閣が戦後50年に出す謝罪のための決議文を出すようにしていた時に、衆議院では決議されましたが、村上氏が断固反対し参議院では決議されずに、村山談話としての扱いになりました。
しかし、その後総理が就任するたびに「村山談話」の継承を求めたために、国会の決議ではなくてよかったと思います。
この話は月刊日本の主催の村山富市氏講演会に行った時に村山さんに直接質問したのですが、その際に同じ会場におられた村上正邦氏が直接この内容を答えてくれました。
それで、村上氏の小泉氏との対立が激化します。
村上氏が辞めた後は青木幹雄氏が就任し、小泉氏も総理時代、青木氏の参議院の意向を配慮することが多々ありました。
1998年小渕恵三氏が総理となり、ブッチホンと呼ばれる電話による調整型の総理が誕生します。
2000年、小沢氏との会談の直後に体調を崩し、一か月後急死した小渕氏の後任人事で、青木幹雄、野中広務、村上誠邦、亀井静香の四人と話して森喜朗総理が誕生し、野党やマスコミからは密室政治と呼ばれます。
総理・総裁になった森氏は清和会の会長を小泉氏に譲ります。しかし森内閣は国民に人気がなくそれに危機感をいだいた反主流派の加藤紘一らが野党の提出した不信任案に乗ろうとしていたので、小泉氏ら主流派が党内での引き締めをし、結局加藤氏の反乱は未然に潰えます。その際に、谷垣氏の「大将が一人で行っちゃだめだよ」と涙の説得をしていたのが印象的でしたね。
この乱を鎮圧したことで小泉氏の党内での評判が上がり、今までの孤高を貫いていきた一匹狼から印象が変わり始めます。
そして2001年の総裁選の時に、敗北必至と言われていましたが、「小泉人気」が高まり、当時の「自民党を内側からぶっ潰す!」というフレーズが流行語になるほどでした。当時はまだ国民的人気の高かった田中真紀子氏も応援し、自民党内で決める総裁選ではなく、国民の支持で決める総裁選の様相を呈するようになり、テレビは小泉劇場として毎日のように取り上げました。このころから政治の劇場化の時代になります。
その後内閣総理大臣として5年以上の長期政権を築きます。
そして辞める時に、スパっと政界引退を発表し、これまた世間を驚かせます。今までの人のように院政をとるつもりがなく、国民からは潔い引き際だと称賛されていました。不肖私もその一人でした。
その際に小泉氏の政策研究会に原子力関係団体からの政治資金の寄付がもらえなくなりました。政治家が政治家を辞めたら企業としても献金をする必要がないと判断するのが当然ですが、これに小泉氏は激怒します。
そして2011年の3.11の事故があり、その後小泉氏は反原発に舵を切るのです。
現役の議員時代は多額の献金を原子力関係団体からもらっているにもかかわらず、辞めてお金がもらえなくなったら反原発の旗手として菅直人や小沢一郎と手を組むのは本当に晩節を穢します。
この人の頭の中はどうなっているのかわかりませんが、太陽光発電では日本の電力は持ちません。また火力も限界をとうに過ぎており、資源のない日本は少ない量で莫大なエネルギーが取り出せる原子力が必要なのです。
それでも原子力は怖いという人はぜひきちんとした原子力の知識を学んでください。知らないから怖いのです、気味が悪いのです。
原子力施設への見学もいいでしょう。発電所には大勢の人が働いています。過疎地域の雇用も生み出しています。
玄海原子力発電所が止っている時は隣接した唐津市の経済も冷え切っていましたが、最近はだいぶ復活してきているようです。
昨日も書きましたが、暑い今年の夏、電力の心配をしないで乗り切れるのは九電の管轄下だけです。
電気料金を下げる方法?簡単です。自分の家の電気料金の明細書を見てください。再エネ賦課金(FIT)が約一割を占めているでしょう。
これが自分の家にない太陽光パネルをつけた家の電気代補助に回っているお金です。当初よりも金額は少なくなりましたが、菅直人と孫正義が密談をして決めた制度と価格です。これをやめればいいだけの話です。とたんに一割下がります。
これを現代の搾取政策と呼んでいます。太陽光パネルをつけられない貧乏人が太陽光パネルを自宅につけられる人に毎月貢いでいるのです。
ただし九州では九電がもう買い取れないくらいの発電施設が存在します。
パッと日が照れば一斉に発電を開始します。しかし、曇れば一斉に電力供給量が下がります。もしその時に何もしなければ大停電が発生するのです。それをしないために九電は操作員が火力発電の出力を天気予報を見ながら上げるのです。
新電電が安いからと切り替える人もいますが、送電線や電気が不足した時の責任はすべて九電が負っています。こういう事情を知ったら九電を見切るのはできないですね。
昨日のブログで紹介したように電力会社のHPなどにもわかりやすく書いてあります。
「原子力発電所が止まっていても電気は足りてる」という小泉氏の言葉がいかに無責任か、今年の夏の電力不足で理解できるでしょう。