夫婦別姓に賛成だというコメントに反論します。 | 井上政典のブログ

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 歴史ナビゲーターの井上政典がお贈りする祖国日本への提言です。
 
 ご意見は賛成反対を問わずどんどん書いてください。

 ただし、社会人としての基本的なマナーは守ってくださいね。

 
昨日のブログへの反応です。

 私のタイムラインには珍しく、貴重な賛成意見のコメントがフェイスブックに書き込んであったのでご紹介し、反論します。

>>>引用開始

R.Kさんのご意見
 「選択的自由姓に賛成します。日本の良俗を破壊などしませんしね。破壊するものは他にあるのに、姓名ごときで拳を振り上げる気にもなりません。そもそも名前などどーでもいいし、こだわりなどない人もいます。ゆえに固執する人は同姓にすればいいし、気にしない人は別姓を選べばいいでしょう。つまり、別姓を希望する人の権利を認めろ、ということですね。」


H.Oさんのご意見
 「夫婦の別姓を希望する一部の人に認めた所で世の中がそれほど変わるとは思えませんが(従って私は現法律の改訂に賛成)、このサイトでは別姓に反対の方が多いのですね。 日本文化の素晴らしさは夫婦別姓の人達が多少居たところで変わらないでしょうし少数の拘る人達には認めて上げれば良いのにと言うのが私の考えです。150年前には「姓(名字)」を持つ日本人は少数だったでしょうし、家名なしの庶民だって今に至る日本文化の一部を担っていたと思います。」

>>>引用終わり

 これは、日本という個人の権利が厚く保護されている状況下においてのみ言えるものでしょう。

 個人がそう望んでいるのだから認めるという意見は、たとえば自分はアルコールに強いからビール一杯くらいなら大丈夫だから飲酒運転を認めろというようなものだと思います。

 法律できちんと線引きをしてそのルールを守ることにより、個人の生活や権利が護られるのです。

 それを少数意見の尊重をしなければならないと言って認めてきた日本でどんな問題が起こっているのかよくご存知でしょう。

 安保法案が審議されている時だったと思います。

 チマチョゴリを着た在日の女性が自分は目隠しをしてフリーハグを東京の街角で行っていました。

 みんなその趣旨に同意してハグしていました。それを感動的だとフェイスブック上にシェアされていたのですが、これは日本という治安が護られている場所だから存在することであり、もしアメリカのスラム街でこれをしたらどうでしょう?中東の激戦区でこれをしたらどうなるでしょう?

 安全が確保されているからできることなのです。その安全は、みんなが一定の規則を忠実に守ると信じられるから秩序が生まれているのです。

 それを破壊して、時間が経過したらどのような事態になるのか想像ができないのでしょうか。

 今日の産経新聞に世論調査の結果が載っていました。

 それによると夫婦別姓に賛成するかが半分を超え、賛成が多いとありました。それと同時に、では自分は夫婦別姓にするかというと8割がしないと答えていました。

 つまり、上記の二つのご意見と同じなのです。

 名前なんてどうでもいいだろう、してほしい人がいれば認めてあげたらという意見が多いと私は理解しました。

 でも、みなさん!果たしてそれでいいのでしょうか?

 日本国民が全員姓を持ったのは(もちろん皇族は除く)、明治になってからと言われています。

 だから、姓はわずか150年ほどの新しい制度だからそんな伝統といえるものではないと夫婦別姓を主張する人たちの論調があります。

 私はそうは思いません。

 姓は由緒ある貴族や武家が使用していましたが、農民や町民はどうしていたのでしょう?

 農民は〇〇の庄のタロウとか、〇〇村のゴンベイと対外的には名乗り、村内では誰の息子のタロウとかゴンベイと名乗っていました。

 その家に入るとその家の家族として受け入れられ寝食を共にし、苦労を分かち合っていました。

 姓を持つことが特権であり、憧れでした。明治になって誰もが姓を持つことができるようになり、今までの使用していた通名を戸籍に乗せたのが始まりだと聞きました。

 川上に住むゴンベイさんだから、川上と名乗ったのですが、その近辺は川上だらけでした。だから以前と同じようにだれだれの息子のゴンベイとみんなから言われていたのです。

 貴族であっても同じです。太宰府天満宮の宮司さんのお名前は「西高辻」さんです。この家は菅原道真公の直径ですが、菅原さんではなく西高辻さんなのです。

 どうして?と質問したことがあります。

 すると西高辻宮司は、天満宮のそばに一族が住んでいてみんな菅原姓を名乗っていたのですが、それでは区別がつかないので、どこどこのという場所で区別をしていたのです。そこで西の高辻の所に住んでいたので、西高辻となりましたと答えてくれました。

 このように貴族の末裔であっても、姓の決め方はおおらかなのです。でも、その決めた姓の家の信用をしっかりと家族で護ってきたのが日本の家庭です。

 武家はもちろんのこと、その家に入るとその姓を名乗ることは江戸時代には確立し、当時の戸籍であったお寺の過去帳には他家から嫁いできたお嫁さんも同じように記入されています。

 そうなると、この夫婦同姓は既に400年以上も前から存在し、庶民に至ってはもっと以前から姓に代わる屋号を大切に守ってきたのです。

 
商家はその家の「のれん」を大切にし、その「のれん」の名誉を傷つけないように信用を積み上げてきました。
だから、日本は100年以上続く企業が22000社以上もあり、世界一なのです。

 制度で決めているから、統一感があり規則となります。それを個人の希望だからと言って一部を認めてしまえば混乱するだけではないでしょうか。

 すでに混乱していてその解決策として法律を改正するのならまだわかるのですが、ほとんど混乱もないのに、つまり変える必要性も希薄なのに、どうしていま帰る必要があるのでしょうか。全く理解できません。

 初めのお二人のご意見は、普通の暮らしが当たり前にできる日本という国家があることが前提となっています。

 もし、国家がシリアやイラクのように無秩序であったら、このような寛容な意見は出てこないのではないでしょうか。

 ちょっとの変化を認めてしまい、後に禍根を残した例が多々あります。

 それが、男女共同参画であり、同一賃金同一労働の原則です。

 今日本は少子化の警鐘が鳴らされ、何とかしなければと言われていますが、若い人たちが結婚し子供を安心して産み育てる社会にしないと少子化に歯止めはかかりません。

 男と女は同じ権利を持つ同じ人間だということは全く異論はありません。

 でも、生物学的に男と女は機能が違うということを忘れてはいませんか。

 アメリカの軍隊で女性も海兵隊の一員として最前線で戦うことになりましたが、私は新しい生命を産みだす女性が最前線で命のやり取りをしてほしくありません。

 だから、世界の潮流が女性も軍隊に入り、過酷な戦闘任務につくようになっても、私は反対し続けるでしょうし、大勢の日本人もそれに賛同してくれるでしょう。

 なぜなら日本は尚武のお国柄で、その戦いの前面に立つのは男性であるからです。

 男は命を懸けて女子供を守ります。そして女は命を懸けて子供を産み育てるのです。

 これが古い考えでしょうか?

 昔も今も男女の性別は存在し、機能も全く変わっていません。それを思想で捻じ曲げることはおかしいことだと思います。

 どこかの県議が「同性愛は異常だ」とヤジを飛ばして問題になっていますが、その発言のどこが問題なのでしょう?

 生物学的に考えて、同性で愛を育むことはできても子孫は作れません。子孫を残さない性行為はただの自己満足にしかすぎません。

 いままで受け継いできた命を自分だけのものとして捉える自己中心的な偽善だと思うのです。

 私たちは命を戴き、そしてそれを次の世代につなげるという使命があります。それが生物学的に課された任務であり、同性愛はそれを放棄する行為です。それを以上と言って何が悪いのでしょうか。

 ただ個人の性癖まで禁止するようなことは思いません。こそっとしたらいいと思うのですが、それを法的に認めよとか言うのは論外でしょう。

 憲法は以前も書きましたが、憲法典という文書ですが、英語の「コンスティチューション」には「お国柄」という意味もあります。
 
 つまり、憲法はその国のお国柄を示していなければならないはずです。
 
 尚武のお国柄である日本が武力を禁じられていること自体がお国柄を表していません。

 自己犠牲が当たり前に存在する日本において、権利という言葉ばかりが並ぶ現憲法はお国柄を表していません。

 その上に夫婦別姓が憲法上合憲ならば、なおさら現憲法の早期の改正を図るべきでしょうね。