「特攻」は自爆テロより悪質なのか? | 井上政典のブログ

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 歴史ナビゲーターの井上政典がお贈りする祖国日本への提言です。
 
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 BLOGOSの清谷信一氏の記事を読んで本当に腹が立った。

http://blogos.com/article/145507/

 >>>引用開始

 率直に申し上げて、特攻は自爆テロよりも悪質で、下策です。強要されて死んだ搭乗員たちは犬死です。 この人の主張は、昔はよかったという老人の繰り言にしかすぎません(清谷信一)

>>>引用終わり

 この記事は産経新聞の特攻隊の生き残り末吉初男さんの「カミカゼと自爆テロは違う」という内容の記事に対する批判記事です。

 清谷氏はそのブログで、「中東のテロリストたちは正面から欧米の軍隊に正面で立ち向かう戦力はないから、テロ攻撃は有効であり、当時の日本軍は開戦当初は互角以上の戦いができたのに、戦争指導者たちの無策で犬死させられた」というような趣旨の発言をしています。

 まず、戦争の定義からきちんと整理せねばなりません。

 戦争は悲惨で無慈悲なものです。しかし、そのためにハーグ陸戦条約という取り決めがなされています。

 人間というものは残酷な生き物なので最低限の歯止めをかけなければならないという趣旨から、交戦者の定義から使用してはならない兵器の内容などを細かく規定されており、日本も1911年に批准しています。

 戦闘員つまり兵士は軍服を着用しなければならないとか、一般の市民を巻き添えにしてはならないとかの細かいルールが決めてあります。当然戦争ですから、アメリカのように堂々と違反しても戦勝国になれば何のお咎めもされない矛盾もあります。

 ただ、国際社会において戦争をする場合には最低のルールだけは守ろうねという規定があるのです。

 ですから、日本の特攻隊は日の丸をつけた航空機が敵の空母などの戦闘艦に対して肉弾攻撃を行うことは、この規定から何の逸脱もしていません。

 ところが、テロ行為は一般市民を普通の生活をしている場所で巻き込むものであり、完全なルール違反です。これを卑劣な行為と言わずしてなんというのでしょう。

 だから世界中の人々が怒っているのです。ちゃんとルールを守った上なら戦争だから仕方ないというのは常識です。

 つまり、ここだけで特攻攻撃と自爆テロは大きく違うのです。同列にすること自体おかしいのです。

 その基本的な部分をこの清谷氏は理解していません。

 さらに、今回のパリの同時多発テロを見ていくと、完全な軍事作戦です。

 兵士を動員し、武器弾薬を計画的に準備し、11月13日(金)という第一次世界大戦で連合軍がオスマン帝国の首都コンスタンチノープルを占領した日でもあります。

 もし、ISILがフランスの軍事基地や艦船に向けてゲリラ攻撃を仕掛けて大きな損害を与えたならば、それは自国の民衆への爆撃の報復措置としてこれほどまでに世界中から非難を受けずに驚愕されただけに終わったでしょう。

 しかし今回はパリで起こり、その目的自体が戦闘員への攻撃ではなく、非戦闘員(一般市民)への攻撃だったのです。

 これは軍事目標を爆撃し、それに一般市民が巻き込まれたこととは次元の違う問題です。

 イスラエルと対峙するパレスチナゲリラ側は、わざと軍事施設に女子供を監禁し、空爆に合うと被害の出た女子供を前面に出し、これ程までにひどいことをされた被害者を演出します。

 私が得た情報によると、その女子供がいる部屋には施錠されて逃げ出せないようにしているそうです。もし、女子供を護るためには爆撃される軍事施設から遠く離すのが当たり前と思うのですが、彼らはしません。

 なぜならば人の命なんてどうでもいいのです、自分たちの主張を通すためには何でもするのです。これはどこの国の革命家にも共通して言えることでしょう。

 ヘイワのためと称して罪もない米軍関係者に路上で罵倒を浴びせかける沖縄の活動家たちを見れば・・・。

 特攻作戦が軍事作戦として愚策かどうかはいろんな解釈が存在します。

 ただ、もしあなたがその時代の作戦参謀であったら、祖国を護るためにどのような作戦を考えるでしょう?

 美濃部中佐のように工夫して使わずにほっておかれた彗星艦爆を活用して米軍に薄暮攻撃を仕掛けて効果的な損害を与えた指揮官もいました。

 決死の攻撃と必死の攻撃は死ぬ可能性がちょっと違うのです。決死は死を決意するほどの攻撃ですから、うまくいけば生きる機会もありますが、必死は必ず死ぬのですから絶対の死しかありません。

 ただ、作戦を考える人と、作戦を実行する人の役割は違います。

 私たちが今自爆テロと一緒にされて憤慨しているのは、作戦を実行して尊い命を国に捧げられた方々への誹謗中傷に対してです。

 それを犬死や無駄死になどと安全な場所に座っている後世の人間が言うべきものではありません。

 英霊の方々は自分の命を捧げて敵を一歩でも引かせれば、それだけ祖国にいる同朋に災禍が及ぶ時間を遅らせることができるという崇高な犠牲的信念から去れたと思っております。

 もちろん生身の人間ですからもっと生きたかったでしょう、もっとおいしいものを食べたかったでしょう、もっと学問に励みたかったでしょう。恋をして子を作り、家庭を持ちたかったでしょう。

 それは、個の欲求です。その個の欲求に背を向けて、公に向かって生きたのです。

 それが聖徳太子の17条憲法の15条 「背私向公(はいしこうこう)」の生き方なのです。

 こんな生き方をする民族は日本人以外いないといっても過言ではないでしょう。

 だから理解されないし、戦後の教育、それも赤く染まった教育を受けた人には理解できないのです。

 「一即多 多即一」という一つから多くに分かれ、そしてまた一つに帰結していくという日本文化の神髄を理解していない人には理解できない日本人の行動です。

 決して戦争を美化しているのではありません。

 しかし、当時の人たちが自分の命を捧げて戦っていただいたということを知らないということこそが英霊の方々が犬死したことになると思うからです。

 こういう思いで命を捧げていただいたという感謝の気持ちがあれば、その英霊の方々の想いを無駄にせずに日々の自分の行動を「世のため人のため」に尽くしていくことができます。

 それが英霊の方々の想いに応えるということになるのではないでしょうか?

 ほとんどの方がシールズの奥田愛基やこの清谷氏のような発言に違和感を持っていると思います。

 ただ何がどうなのかもやもやしたものが胸の中にあることでしょう。

 それは、私たち日本人のDNAの中に、脈々と息づく「背私向公」という美徳が組み込まれ、「一即多 多即一」という群れを護るためには率先して自分が犠牲になることもいとわないという遺伝子があるからだと思います。

 ではそれがなぜ持ち続けていられるのか?

 それは125代という永きに渡って価値観を変えずに続くご皇室の存在が欠かせないのです。

 そのため、革命家たちはその皇室を貶め、廃止させようと「天皇制」という言葉を作っていかにもご皇室が人が作った制度のように見なし、「天皇家」という私たちと同じ一つの一族のようだと意識に刷り込んでいるのです。

 以前NHKの平清盛で「王家」という言葉が問題になりましたが、あれこそ左巻きのフライングで国民にご皇室の問題を身近に感じさせたものだと思っております。
 
 「王」の字は「皇」の字よりも古く、文献では使われていますが、言文不一致の日本語ではああいう会話で使うのにはふさわしくない言葉です。

 日本には知れば知るほど深い文化や伝統があります。それを知りもしないで後だしじゃんけんのように歴史を批判することは避けるべきだと思います。

 こう書いていますが、きちんとした批判で私が間違いを認めれば、いつでも撤回する謙虚さだけは持っているつもりです。もしご意見・批判等があれば、ぜひお待ちしております。

 ただし、あまりにも礼節を欠くものや、読むに堪えない幼稚な意見は削除させていただきます。