CHINAの的外れな軍事パレードとそれにつき従う事大主義の韓国 | 井上政典のブログ

井上政典のブログ

 歴史を通じて未来を見よう。

 歴史ナビゲーターの井上政典がお贈りする祖国日本への提言です。
 
 ご意見は賛成反対を問わずどんどん書いてください。

 ただし、社会人としての基本的なマナーは守ってくださいね。

 盟友である産経新聞の野口裕之氏の書いた記事が韓国で話題沸騰しているようです。

 日韓併合直前の李氏朝鮮の様子が簡潔にそしてわかりやすく書かれている記事なのですが、韓国としてはこれほどまでに整理して書かれると自分たちの矛盾が浮き彫りにされるために嫌なのでしょう。大変反発を強めています。

 こういうときに、マスコミは記事の一部を論評して自分たちの趣旨に会うように持っていくのですが、やはりまずは原文をきちんと読まねばならないと思うので、ここで引用させていただきます。

>>>引用開始

【野口裕之の軍事情勢】米中二股 韓国が断ち切れぬ「民族の悪い遺産」 
 韓国外交を眺めていると、中島みゆきさんの名曲《時代》が、どうしても頭に浮かぶ。

 ♪めぐるめぐるよ時代はめぐる 別れと出会いをくり返し

 時代を《事大》に置き換えると、韓国外交哀史が鮮やかに浮かび上がる。《事大主義》とは《小》が《大》に《事(つか)える》こと。強国に弱国が付き従う外交形態を指す。

 「事大主義」が貫く外交
 李氏朝鮮(1392~1910年)も末期、清→日本→清→日本→ロシア→日本→ロシア…と、内外情勢変化の度に事大先をコロコロと変えていった。そのDNAを色濃く継承する韓国は、李氏朝鮮の再来を思わせる見事な「事大ブリ」を披露する。最大の貿易相手国・中国が主導する金融秩序には自ら身をささげ、朴槿恵(パク・クネ)・大統領(63)は北京で催される《抗日戦争勝利70年記念》軍事パレードを参観する。いずれも米政府の反対をすり抜けたばかりか、中国の「目」を気にして、米政府の高高度防衛ミサイル配備提案も中ぶらりんにしたまま。

 ところが、だ。北朝鮮軍の砲撃を受け、米軍には後詰めではなく、共同対処をお願いする始末。まさに《事大》は《めぐる》が、朝鮮が事大先を替える度、わが国は存亡の危機に瀕してきた。日本が独立を促すと、清にすり寄り日清戦争(1894~95年)の火ダネを造った。日本が勝ち、朝鮮を独立させるやロシアにすがり、日露戦争(1904~05年)誘因の一つを造った。朝鮮→韓国が《別れと出会いをくり返》すと、日本は大厄災に遭う。

 北朝鮮軍の地雷で韓国軍下士官2名が重傷を負い、韓国軍は拡声器を使った北非難を再開した。これに対し、北朝鮮軍は砲撃してきたが、韓国軍は「7倍返し」で応射。朴氏も、北の挑発には現場指揮官の即断で報復攻撃を実施するROE(交戦規定)を許可した。強気の背景には北の局地的軍事挑発に単独で対抗してきた韓国軍に、在韓米軍が初めて共同対処する方針が決断されたためでもある。

 過度な米軍依存の正否は、わが国も検証の必要がある。ただ、日本外交のブレ幅は韓国に比べマシ。外交路線決定は独立国家の権利とはいえ、韓国には米国の頭ごなしに中国と誼を通じることがはばかられる合理・道義的理由が存在する。朝鮮戦争(50~53年休戦)で中国軍はソウルの南まで侵攻。主力の米軍は友軍・韓国軍の弱さも手伝い14万以上の死傷者を出した。韓国にとり中国は侵略者だが、韓国は“国家”ぐるみの倒錯に痛痒を感じない。というか、倒錯への自覚・感覚がない。

閔妃をめぐる朝鮮倒錯史
 李氏朝鮮には、朴大統領のような女性の権力者がいた。第26代王・高宗(1852~1919年)の妃・閔妃(ミンピ、1851~95年)である。以下、かなり“年季”が入っている「朝鮮半島倒錯史」の、ほんの一部をたどってみる。

 【第一幕】閔妃は実権を義父・興宣大院君(1820~98年)から奪うや、大院君の攘夷政策を一転、開国路線に舵を切り、欧露に先駆けて真っ先に日本と外交条約を締結。日本は朝鮮を、清の冊封より独立した国家主権を持つ独立国である旨を明記、軍の近代化に協力した。

 【第二幕】結果、新旧2種の軍が並列。そこに旧式軍隊の待遇・給与未払い問題が絡み、旧式軍隊と大院君派が呼応して1882年、大規模な反乱《壬午事変》を起こす。閔派は無論、近代化を果たした日本に学び、朝鮮を清から完全独立させ、立憲君主国を目指す開化派、さらに日本人を殺害・駆逐。大院君は復権する。

 【第三幕】王宮を脱出した閔妃は、朝鮮駐屯の清軍を頼る。清は反乱鎮圧などを口実に漢城(ソウル)に増派し、反乱を指揮したとして大院君を清に幽閉する。閔妃は、清に依存を深めていく。

(-_-) 日本も日本公使館警備に向け条約を結び、朝鮮に派兵し、日清戦争の火ダネとなる。

 【第四幕】開化派は閔妃の清服属に反発し84年、クーデター《甲申政変》を決行する。清や妻=閔一族に実権を握られていた王・高宗もクーデターを快諾した。が、閔派の通報を受けた清が1500名を派兵。高宗の求めで、王宮警護に就いていた日本公使館警備部隊150名との間で戦闘となる。結局、3日で制圧される。

 日清間で85年、双方の撤兵と、やむを得ず出兵するに当たっての事前通告義務をうたった《天津条約》を締結する。条約により日本は、朝鮮の独立を担保しようと考えたのだ。 

(-_-) 日清開戦は一旦は回避されたものの、第五幕以降も止まぬ混乱の連鎖で、両国の緊張は高まるばかり。

 【第五幕】清の威を借る閔派の事大政策の陰で、高宗はロシア南下を警戒する英国などを牽制すべく、ロシアに積極的に秋波を送る。同時に、欧米に盛んに公使を派遣してもいる。清は警戒を強め、日本の要請もあり、大院君を朝鮮に帰す。

 【第六幕】役人の汚職や増税に怒る農民が新宗教と結び付いて94年《甲午農民戦争》を起こす(大院君の陰謀説アリ)。一揆は朝鮮軍を撃破し続け、閔派はまたも清に援軍を求める。

 (-_-) もはや一刻の猶予もならなかった。かくして、日清戦争の戦端が開かれる。

 【第七幕】戦争直前には、日本の支援で閔派排除のクーデターを起こし開化派+大院君派は政権を樹立。だのに戦時中、大院君は開化派の暗殺をくり返し、前述の新宗教・農民勢力と清軍に工作し、日本軍を挟撃せんとした。

 【第八幕】日本の日清戦争勝利で朝鮮は清の冊封体制からようやくはい出る。大院君派が再び力を付け、逆に清という後ろ盾を失った閔派は衰退する。

 【第九幕】閔派は95年、ロシア軍の支援で権力を奪還するも3カ月後、閔妃は暗殺される。

 もう、何が何だか分からない。朴氏の父、朴正煕(パク・チョンヒ)・元大統領(1917~79年)は暗殺される前《民族の悪い遺産》の筆頭に事大主義を挙げ、改革を模索した。皮肉にも、北朝鮮は《悪い遺産》を嫌悪し自主・自立を意味する《主体思想》を看板に、米国と対立するのみならず、中国にも反発し始めた。

 ところで、韓国軍は抗日軍事パレード参加を見送るようだ。豊臣秀吉(1537~98年)の朝鮮出兵時、明(中国)軍の一翼として行軍した李氏朝鮮軍と同様の“事大絵巻”が観られないのは、少し残念な気もする。
(政治部専門委員 野口裕之/SANKEI EXPRESS)


>>>引用終わり

 多分この記事を一回読んですぐに理解できる人はよほどここら辺の歴史に詳しい人でしょう。

 何が何だか分からなくなるのが普通なのです。

 つまり、思考の軸が国家ではなく権力者個人であり、国益など全く考えずに自分の権力を保持するためには都合のいい相手と組むということで動いているのです。

 日本人から見れば「節操のなさ」があるために、ちょっと前までは味方であった人間が敵になっていたり、また味方になっていたりと複雑怪奇なのです。

 明治維新の際の日本人はそれぞれの立場を越えても日本のために立ち振る舞った人物が多かったので、日本はアジアで唯一独立を保ち、そしてアジアの解放の出発点になれました。

 勝海舟を見てください、幕臣でありながら徳川幕府の幕を引きます。しかし、その残りの生涯は徳川慶喜の復権に尽力し、復権が叶い明治天皇に拝謁できた翌年に海舟の生涯はやっと終わります。

 徳川慶喜にしても、徹底抗戦をすればお金がなく瓦解寸前だった薩長軍を破ることは可能だったのですが、それをすることが欧米列強の餌食に祖国をされるという思いと、天皇様に弓ひくことは臣下としてできないという水戸学の思いから、謹慎恭順の意を表し、幕府は抗戦せずに余力を残しつつ明治維新という政権交代を完成させます。

 勝海舟と西郷隆盛の話し合いで江戸無血開城を実現しますが、その前には山岡鉄舟という武士の中の武士で自分の命も名誉も財産もまったく気にしない侍が、主人徳川慶喜公と日本国と江戸市民のために単身新政府軍の陣地に現れ、堂々と西郷に面会を求め、本陣まで達するのです。

 そして事前のおぜん立てを見事に果たし、官軍の総大将と幕府の責任者のトップ会談を成功に導くのです。

 そこには、個として欲は全く存在せずに、公に尽くすというCHINA人や朝鮮人には理解できない「義や仁」の世界が現実に登場するのです。

 その人間性は、西郷隆盛をして「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困るが、そのような人でなければ天下の偉業は成し遂げられない」と賞賛させたほどです。

 もし李氏朝鮮末期にそのような人が現れ、周りが認めるような風潮が朝鮮に存在していたら、日本に併合することなく独立国として世界の最貧国から徐々に脱することができたかもしれませんし、日本も清国やロシアとの戦争を避けることができたかもしれません。

 実際は金玉均という人が現れるのですが、寄ってたかってこのひとを貶め、ついには暗殺されるのです。

 義のために命をかける人がいることを朝鮮人は知っていてもそれが現実に出てくるとは信じられなかったのでしょう。

 日清戦争の結果何が起こったかというと日本は清国から賠償金を貰い、それを元にして官営八幡製鐵所を建設し、そこから作り出される鉄で国内のレールを生産し、さらに建物の鋼材を生産し、そして船を作ることで国内のインフラを整備し、流通を盛んにして、貿易立国として発展していくのです。

 一方、李氏朝鮮は数百年に渡る清国の属国か抜け出し、大韓帝国として独立国となるのです。それまでは王様でしたが、皇帝を名乗ることとなります。そこで独立国らしい国づくりを国民をあげて行えばよかったのですが、そこで起こったのが国内での権力闘争でその様相をみた国民から愛想を尽かされて日本に統治をしてほしいという声が上がり、正式な国際条約に基づいて日韓併合となるのです。

 日韓併合によって国民は不幸になったのでしょうか?

 行きたくもない学校に行かされ、読みたくもない文字を読まされ、訪れたくもない他の街に行けるようになり、使いたくもない電気を使うようになります。

 材料が簡単に手に入る茅葺の家だったのに、高価な瓦ぶき屋根にさせられ、衛生観念は無頓着でよかったのに風呂に入らせれて、長生きしたくないのに寿命が延び、乳幼児が簡単に死ななくなったために子供がたくさんに増えました。

 なにも働かなくて暮らせていた両班はその特権を奪われ、まじめに勉強したり勤勉に働かき、風呂に入らないと怖い日本人から怒られる暮らしを強いられました。

 監視の目の届かないところではすぐにさぼり、平気で嘘をつけていた生活は一変しました。

 つまり、今までの生活を日本にすっかり変えさせられたのです。だから今でも恨んでいるのしょう。

 そして日本と一緒に連合国と戦い、その後は朝鮮戦争で北の同胞と血みどろの戦いをし、人民解放軍からたくさん殺されたのです。

 これもすべて日本が韓国を併合したために起こったことだと思っているのでしょう。そうでなければ、昨日の抗日軍事パレードに朴大統領がへらへら愛想笑いを浮かべて参加した理由が思いつきません。

 中国共産党の軍は弱すぎて帝国陸軍の姿を見れば逃げ隠れをして、テロ行為という軍事行動ではない犯罪行動でちょっかいをかけていた人たちが、国民党軍を内戦で台湾に追い出し否定して自分たちの正当性を主張していたにもかかわらず、日本軍に勝ったと平気でうそをつく国。

 さらに、日本帝国陸軍は天皇陛下の終戦の詔で武装解除をするまで大陸では確固たる勢力を保持し、戦闘には敗れていませんでした。しかし、天皇陛下の命には従うのが皇軍ですから、秩序ある武装解除に応じ、その集積された軍需物資をソ連軍に受け渡し、ソ連は中国共産党にそれを払い下げたところから人民解放軍が正規の軍隊となるきっかけになるのです。

 もしあのまま大陸での抗戦を続けていたら、ソ連軍は日本の入植者に乱暴をすることはできなかったでしょう。

 人民解放軍も軍事物資を手に入れることができずに正規軍に昇格できずに国民党を追い出すことはできなかったでしょう。

 そういう意味でも、感謝をされることがあっても戦勝を祝ってパレードをするようなことはできないのはないでしょうか。

 またそれにへいこらと媚びへつらう日本の国会議員がいることに腹が立ちます。もっと毅然とした態度はとれないのでしょうか?どんな議員が駐日大使館の祝賀会に参加したかをきちんと把握して、次の選挙で駆逐せねばなりますまい。

 心から心配していた学生のハンガーストライキも無事ドクターストップがかかり、大恥をかいただけで終わりました。どんなにたくさんの人を動員し、これが民意だと叫んでいても、隣にこんな軍事大国があり、歴史的にも大ウソを平気で言う国よりも自国の総理大臣を信用できないという人がいることが信じられません。

 でも日本国民の安倍政権への支持率は上向き、不支持率は下がっています。この現象を国会前で騒ぐ人やマスコミはどう感じているのでしょう。ぜひご意見をお聞きしたいものですね。