日韓の政治問題になるとかならず韓国側は歴史認識問題を持ち出してきます。
それが事実なら私も別にここに書く必要がないのですが、それがあまりにもでたらめなので日本の政治家、特にせっかく会えた舛添知事がどうしてそれを正さないのか不思議でなりません。
舛添知事は仮にも東京大学で国際政治学者だったはず、国際政治とは自国の利益になるためにどのように行動するのかを考える学問だと思っていたのですが、今回の舛添の幇間を、いや訪韓をみると私の考えている国際政治学というものは舛添知事が学んできたものと違うのかと思う次第です。
私の定義の仕方が間違っているのでしょうか?
大陸や半島の歴史を見ていくとどのような時に易姓革命が起きたかを考えてみましょう。
人々が食えなくなった時に、庶民は立ち上がっています。富の再配分が公正に行われなかった時ではありません。
どんなに私腹を肥やす人間がいても、民が食べることができていればなんとかその王朝は維持できていました。
李氏朝鮮を見てみましょう。
両班という貴族階級が国を支配していました。そして両班以外の中人や賤民から搾取して自分たちだけきれいなべべを着て美味しいものを腹いっぱい食べていました。
だから、李氏朝鮮時代はさほど人口が増えていません。もともと正確な統計もない国ですから、正確だと言えません。
しかし、1910年に日本が併合したのちは、日本が管理していますからある程度信頼がおける数字になっていると思います。
そうすると、1910年時点で1400万人ほどでした。35年後1945年にはその倍の2800万人になっているのです。
日本が併合してどうしてこのような人口の増え方をしてきたのでしょう?
これをぜひパククネおばさんに質問してその回答を聞きたいものです。
国家の人口増加は一概には言えないのですが、でも食糧生産能力とは密接にかかわります。
筑前黒田藩は52万石、加賀100万石といいますが、この一石(いっこく)という単位は二俵半で一俵が60kgですから150kgです。それは何を表すかというと一人の人間が一年間に食べる米の量だと言われています。
すると福岡藩は最大52万人の人口を養えるだけの石高があったことになります。
でも、米の生産量はすぐには増加しません。
朝鮮の場合は、富の再配分が両班たちの政治的無関心、無能さによってうまくいってなかったのです。だから一般庶民は食べるものが手に入らなくて痩せていました。
CHINA人の一般的な挨拶に「もう飯食ったか?」というものがありますが、ちゃんと食べられていることが挨拶になるくらい、生活の上で食べることは重要であり、庶民の関心がここにあったことがわかるでしょう。
江戸時代閉鎖型社会と言われていますが、庶民は食べることができ、そして文化的な生活を送ることができました。
芸術を見ればすぐにわかるのです。
ヨーロッパ、いや日本以外の優れた芸術作品はすべてパトロンが存在します。王侯貴族、教会、金持ちの商人などです。
しかし、江戸時代の文楽や歌舞伎、浮世絵、茶の湯などの文化は庶民の間で流行したものでした。
つまり、食は足りていたのです。だからこういう文化に触れる余裕が生活にあったのです。もし皆さんが食うや食わずの時にAKBが来たからと言ってチケットやCDを買って応援できるでしょうか?
最低限食べていけるからそれが出来るのです。
つまりこのことから、食料が朝鮮の人たちにいきわたったということが容易に推察できると思います。
そして、幼児死亡率の低下です。極度の衛生状態の悪さでの病気ありましたが、それ以外にも原因がありました。
日本でも東北地方で飢饉が起きた時に口減らしのために子供を消しました。
つまり子消し(こけし)をしたのです。その子供の供養のために可愛らしいこけし人形が作られました。
九州などでは米以外に冬でもいろんな食べ物があるために、こけしという文化は残っていませんが、東北の厳しい冬はつらい選択を親に突きつけていました。
でも、日本の大名は自分たちの領国経営の中心に据えていたのが、領民保護です。つまり藩の国力は領民が豊かで幸せに暮らしているかが大きな問題でした。
これは鎌倉時代に武士がその所領を守るために「一所懸命」に努力したところから始まります。
つまり、富が朝鮮やCHINAのように都に一極集中せずに、それぞれの地方で文化と共に郷土の誇りをはぐくんだからです。
領民も過酷な藩政を強いる領主を見限って隣の藩へ移ったり、人口の流動性も今ほどではありませんでしたが、朝鮮などに比べれば確立していました。
あの勝海舟のひいじいさんは越後の貧農の出身でした。そして目が見えませんでした。江戸時代目の見えない人しかできない職業があんまと金貸しでした。
そこで勝海舟のひいじいさんは江戸に出て金貸しを初めて大成功し、莫大な富を築きました。そのお金で「男谷家」という御家人株を買い、そしてその後「勝家」という旗本株を買ったのです。もし、勝海舟が幕末に活躍しなかったら、こういう話は一切表には出なかったでしょうが、こういう事例がほかにもたくさんあると考えていいでしょう。
それが出来ていなかったのが李氏朝鮮です。それで庶民がこのままでは食べていけないということから統治を日本に委ねたのです。
武力による威嚇ではありません。日本は欲しくないという人も多かったのです。その筆頭が安重根から殺されたと言われる伊藤博文翁でした。
イギリスもフランスも植民地として狙おうとしましたが、あまりにも貧しい国で、何も搾取する物がないから手をつけませんでした。
そしてそれを日本が統治して、下級役人や警察官は朝鮮人を登用してモラルを教え、何のために職務にあたるかを教育しました。もちろん今までの様に私腹を肥やそうとする人もいたため、厳罰を加えました。
それが苛斂誅求な植民地支配と言われる物の正体ですが、悪いことをしたら罰せられるという信賞必罰という賄賂やコネに狎れた朝鮮人にとっては驚天動地の概念を実践したのが日本の朝鮮総督府なのです。
富の再配分が円滑に行われ、人々が身分にかかわらずに自分が働いた分だけ収入が増えるという私たちにとっては当たり前の社会が実現し、人々の労働意欲も向上し生産性が上がり、間引きする幼児も少なくなったので、たった35年で人口が倍になったと考えて何の不思議がありましょう。
その歴史的認識をパククネおばさんに問いただす政治家は日本にいないのでしょうか?