古事記は1300年前太安万侶(おおのやすまろ)が命じられて、稗田阿礼(ひえだのあれ)一族が太古より口伝によって継承されていた日本国の始まりを書にしたものです。
もう一つ「日本書紀」という本がありますが、これと一対として読むと真実がわかるようになっています。
ただ、この「日本書紀」というのは、間違った言い方であり、「日本紀」というのがただしく、古来は「古事記」「日本紀」を総称して言っていたものを平安の頃からあやまってこれとは別に古事記があると思われ始め、「日本書紀」という言い方になってきました。
そのため、「続日本紀(しょくにほんぎ)」という書物がありますから、日本書紀という言い方がおかしいとわかると思います。そして、書は物語をあらわし、紀は編年体の本を著していますが、このような書き方は古代のCHINAには存在せず、日本だけのものであり、これが堂々と教科書に載っていることがこっけいなのです。
古事記に戻ります。古事記の内容には周辺諸国の神話が入っていたり、ちょっとつじつまが合わないところがありますが、古事記の上つ巻の最初の方は、日本独特のもので、ここに日本の思考の大本が詰まっています。
しかし、ここはあまり重視されず、間違った解釈をしていている宗教学者も数多いと思います。その人たちのほとんどが西洋の宗教の概念で日本の神道を捉えようとしているためだと私は思っています。
昨日の壱岐で行われた「響きあう魂たち」の創作舞台「古事記神代ものがたり」こぉーろこぉーろでも、アメノミナカヌシ(天御中主之神)がイザナキとイザナミにこの世をおつくりになることを命じられたから始まりましたが、アメノミナカヌシの神は、西洋におけるヤーウェのような個体の神様ではなく、私達が住んでいるこの環境すべてのことだと古事記は説いているのです。
つまり、アメノミナカヌシノカミとタカムスビ、カミムスビの造化三神がこの世をおつくりになられて「お隠れになる」ということは、この地球に生物がすむことができる環境を整えられたと考えたのです。ここが世界の他の宗教と違うところで、創造主がすべてを作ったのではなく、創造主は生物が生きることができる空間を置く釣りになったと考えてよいのです。
そして、後の細かい作業をイザナキとイザナミの陰と陽の相反し、でも会い助け合う存在が細やかにこの世を作っていったのだと古事記から読み取れます。これが一即多、多即一の原則に繋がります。
これは世界の他の宗教のどれとも相容れないものであり、日本の神道の奥の深さを示すところだと思っています。
生物が住める環境と住めない環境の線引きを行い、住める環境の中で国産みが始まり、風や木や山や海が作られ、九州や壱岐や対馬が生まれ出てくるのです。住める環境自体が神様の中だと古事記の概念の凄さは、私達日本人に人間の幸福の最終形がお金や地位ではなく、「むすび」と「調和」であることを教えています。
ちょっと話がややこしくなりましたが、簡単に言うと私達日本人は他の人々と助け合い、理解しあって生きる事が幸せなんだと知っている世界で唯一といっていいような民族なのです。
それは、適度な島国という地政学上の有利さも加わっていますが、みんなで協力し大きなことをするという農耕民族の特徴でもあります。もし、弥生時代に日本だけが孤立して来ていたら、これほど幸せなことは無かったでしょう。戦争がない時期が一番長いのも日本文化の特徴になります。
持てる者は持てない者に分け与え、持てない物は自分ができることでそれに報いる。これこそ、究極の極楽ではないでしょうか。それを一番具現化してきたのが日本人であり、それが日本の歴史の中にはちりばめられています。
戦乱の時もありますが、その後に長い平和な時代が続くのです。又矛盾がたまってくると乱れ、そして収まっていくのです。
その大元にあるものが「古事記」だと思えてなりません。
どうして、1300年目の今年に世が乱れているのか?それは日本人が古事記を見直し、これから長い平安な時を作り上げるための準備のためだと思えるようになって来ました。
当たり前のように反日をいっていた人たちが、空虚や滑稽に見えてきていませんか?
平和を訴える人が偽善に見えてきませんか?
人々の命を守るためにといっている人たちの顔は平安な顔をしていますか?
日本人の持つすばらしさを理解するために古事記を読みましょうという気運が高まっているのは、ちょうどこの時期にみんなが結集すれば日本が更によくなるということを表していることだと確信するようになりました。
長い古事記の全部を読む必要はありません。せめて、イザナキ・イザナミが国産みをするところまででいいんです。この意味はなんだろうと考えることが日本人をあらためて凄いものだとわかるきっかけとなるでしょう。