7月30日は明治大帝の式年祭です。 | 井上政典のブログ

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 歴史ナビゲーターの井上政典がお贈りする祖国日本への提言です。
 
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 いまからちょうと100年前の7月30日に明治大帝が崩御されました。

 明治の近代化は明治大帝とともにあったと思っております。

 しかし、日本の皇室は他の国と違い、権力を持ちません。ほとんど方が誤解されているのですが、大日本帝国憲法下でも天皇陛下は臣民に「死ね」と命令することはできません。輔弼機関が上奏するものを裁可されるだけです。

 つまり、日本の天皇は「権威」しか持たないのです。だから間違っていると思っても語自分の意見を言うことはできませんでした。

 だから、明治大帝は日露戦争の祭に大国ロシア帝国との戦は日本の将来にどのような暗雲をもたらすかとご心配になり、有名な御製をお詠みになられました。

 四方の海 みな同胞(はらから)と 思ふ世に など波風の 立ち騒
    
 「戦争をすればたくさんの民が苦しむ、何とか戦争を回避することはできないのか、もっと知恵を絞って考えよ」と思し召しなられ、ご裁可をくださいませんでした。

 重臣達は大帝のお心を忖度(そんたく)し、交渉を重ねますが、これ以上の時間を使うことはシベリア鉄道の完成につながり、日本に不利な状況となるために、とうとう1904年2月8日に開戦します。

 この御製は、大東亜戦争の時にも昭和天皇が当時の政府にお示しになり、なんとか開戦を回避できないかと意思を歌によってお示しになりました。


 しかし、開戦となると将兵が戦地で戦っているのですが、明治大帝は炎暑の夏になっても開戦当時の地の厚い冬服をお召しになったままでした。これは日清戦争の際もそうでした。

 それは、あくまでも戦場のある将兵と労苦をともにせんとの覚悟の現れであり、ひたすらに出征将兵を思いやられました。

  暑しともいはれざりけり 戦の場にあけくれ たつひと(人)おもへば
  軍人(いくさびと)すすむ山路を まのあたり 身しは仮寝の ゆめにぞありける

 このように明治大帝は、戦地で国のために命をかけて戦っている将兵を常に思われていたのでした。
 それでも、武運が尽きて戦死する将兵も数多くありました。毎日戦死者名簿をご覧になってあれこれとご下問され遺族のご心配をされていたのでした。

  はからずも 世をふかしけり くにのため いのちをすてし 人をかぞえて

 こういう御製をみると、大帝の心情がありありと浮かび、目頭が熱くなります。

  国を思うみちには二つは なかりけり 軍の場に たつもたたぬも

 国民が一丸となって、国難を払いのけました。この尊い犠牲により日本は欧米列強とアジアで初めて肩を並べるところにきたのです。


 明治になって40歳の西郷隆盛が15歳の明治天皇に女官を遠ざけ、文武に励むようご進言し、明治天皇も西郷ドンを父のように慕われたそうです。明治6年の政変で薩摩に下野した時に、明治天皇は西郷に何度も写真を撮って送れと催促します。

 西郷さんは「わかりもした」というものも、写真嫌いのため写真を撮ろうとしませんでした。というより、西郷さんはこのときには既に自分の命は我が物にあらずという境地に達していたため、後世に何も残さないという心境にあったと思っています。

 再三の明治天皇の御所望に周りのものが恐縮して、西郷さんの写真を撮ろうとしますが、当時の写真機は一分ほどじっとしておかないと撮れません。

 そこで寝ているところを撮ったそうですが、いくらなんでも寝顔の写真を天皇陛下に献上するのも失礼だということで幻の写真となったそうです。

 この話は、南州神社(鹿児島)の宮司さんからお聞きしました。

 とても人間味のあるご性格を公務ににじませ、あの乃木希典も明治大帝に心酔していました。
  
 旅順要塞攻略の報告を天皇陛下に奏上する席上、たくさんの人が見守る中、乃木希典大将はたくさんの将兵を死なせて陛下に申し訳ないと人目もはばからずに号泣します。

 その時に明治大帝は「乃木、死ぬなよ。まだすることがある」といって学習院の院長を命じられます。

 学習院の院長になった乃木がお世話したのは、幼い昭和天皇陛下でした。皇居から学習院までの道を馬車での送り迎えを止めさせ、徒歩で通うようにされ、心身ともに修練をさせたのです。それは雨の日も嵐の日も変わらずに徒歩で行くように指導されました。

 そして幼い昭和天皇に明治大帝がどれだけ臣下のことを想いになられ、常に臣民のことをお考えになっていたかを説きました。乃木の薫陶を受けられた昭和天皇も国民を想う立派な天皇陛下になられました。

 そして、9月13日明治大帝の大葬の日に妻とともに殉職をするのです。

 最後のお話を幼い昭和天皇に言い終わると、昭和天皇はぽつりと「乃木よ、どこかに行くのか?」と仰せになったといわれています。乃木の殉死の決意をお汲み取りになったのです。

 このように日本人として、明治の激動期を欧米列強の貪欲な魔の手から国民一丸となって防げたのも明治大帝とその臣下の働きによるものだと思っています。

 その大帝が崩御されてちょうど100年。今後の日本をしっかりと見据えなければならない時期に来ています。