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景行天皇の九州征伐ですが、後半戦に入ります。


熊襲の討伐です。


秋7月に、熊襲クマソが背いて朝貢をしなかった。

12月5日、(天皇は)熊襲を討つことを相談された。

その時天皇は群臣に、

「私が聞いたところによると、襲国ソノクニに厚鹿文アツカヤ、迮鹿文サカヤという者がおり、この二人は熊襲の勇武の者で、仲間も多い。これを熊襲の八十梟帥ヤソタケルと言っている。勢いが盛んでかなう者がいない。軍勢が少なくては、敵を滅ぼすことは不可能だろう。
けれども多くの兵を動かせば、百姓たちの害となる。どうにか兵力に頼らずに、ひとりでにその国を平定したいが……」と仰せられた。

その時、ー人の家臣が進み出て
「熊襲梟帥クマソタケルに二人の娘がいます。姉を市乾鹿文イチフカヤといい、妹を市鹿文イチカヤと申します。容姿は端正で、性格もしっかりしています。
沢山の幣マイナイ=贈物を示して、こちらの陣営に引き入れましょう。それで敵方の様子を探って、不意をつけば、刃に血塗らさずして、敵は自然と敗れるでしょう。」と申し上げた。
天皇は、
「良い考えだ👍️」とおっしゃった。

幣ってヌサ=神様へのお供え物かと思ったら、まいない(賂)って意味があるのね(^^;)確かにそうか

さすが80人も子供を作った天皇です❗
臣下もGJ👍️
古代の帝王は色好みも資格のひとつで、光源氏もそういうことだと読んだことがありますが、確かに家康や吉宗は子だくさんで、江戸幕府が安泰だったのは分家をいっぱい持ってたからですよね。

景行天皇にふさわしい攻略法ですね。

そこで贈物を示して、二人の女を欺いて陣営に入れた。

そして天皇は市乾鹿文を召して、偽って寵愛された。
ある時、市乾鹿文は天皇に
「熊襲が従わないことをご心配なさいますな。私に良い謀略があります。そこで一人、二人の兵を私に下さいませ。」と言った。

こうして家に帰った市乾鹿文は、強い酒をたくさん用意し、自分の父に飲ませた。すると(熊襲臬帥は)酔って寝てしまった。
市乾鹿文は密かに父の弓の弦を切り、
そこへ従兵の一人が進入して、熊襲臬帥を殺した。
しかし天皇は市乾鹿文のはなはだしい親不孝を悪として、殺させた。
妹の市鹿文の方は火国造ヒノクニノミヤツコ(皇孫系)に賜わった。

この話は女装したヤマトタケルがクマソタケルを殺す話と似ています。
ヤマトタケルの女装は、新羅の花郎や弥勒信仰との関係が深いことは、以前書きましたが、
そうするとこちらの話から女装の話が派生したと思われます。
厚鹿文、迮鹿文という固有名詞が、突然熊襲臬帥になるのも不思議ですよね。

「古事記」の作者は、こういう異口同音の話が重なるのが許されず、九州征伐をヤマトタケルひとりの事績に変更したのでしょう。


13年夏5月、(皇軍は)ことごとく襲国を平定した。
高屋宮にご滞在になることは、すでに六年であった。さてその国に美人がおり、御刀媛ミハカシヒメといった。

そこで(天皇は)彼女をを召して妃となさった。(御刀媛は)豊国別トヨクニワケ皇子を生んだ。この皇子は日向ヒムカ国造(宮崎県)の始祖である。

17年春3月12日、子湯県コユノアガタ(宮崎県西都市付近)にお出ましになり、丹裳小野ニモノオノに遊ばれた。
その時東方を望まれ、側近のものに
「この国はまっすぐに日の出る方に向いているなあ」とおっしゃった。
それで、その国を名づけて日向という。

ここで宮崎県のあたりが「日向」になったのですが、では天孫降臨の「日向」はどこなのでしょう?
韓国にまっすぐ向かい、朝日も夕日も差す「日向」は、やはりここではないのでしょうか?(^^;)

確かに熊襲征伐の拠点としているので、「日向」は敵国ではありません。
でもニニギや山幸彦、ウガヤフキアエズがいた形跡が、「景行紀」に見られないのは、天孫降臨以下「日向三代」の話より先にこちらができていたからともとれます。

「景行天皇の九州征伐」は、ヤマトタケルの事績を矮小化し、天皇の事績とするために挿入されたというのが、わりと一般的な説なのですが、
ヤマトタケルを称賛しまくっている「日本書紀」の方でヤマトタケルを矮小化するために、わざわざそういうことをするかな?とも思います。

かといって景行天皇の九州征伐は史実かというと、それもどうかと思いますが。

ただ大和朝廷が版図を広げていく道筋という点で考えると、ヤマトタケルの熊襲征伐はあまりに物語的で、具体性に欠けるので、それで大和朝廷が九州を押さえたとは言いにくい。

景行天皇の事績とされる部分も、何かもともとの言い伝えなどがあった可能性もあるということも否定できません。

この日、野中の大石に登って、都を偲んで歌を読まれた。

愛ハしきよし 我家ワギヘの方ゆ 
雲居立ち来も

倭は国のまほらま 畳タタナづく青垣
山籠れる 倭し麗ウルワし

命の全けむ人は 畳薦タタミコモ平群ヘグリの
山の白橿が枝を 髻華ウズに挿せ 此の子

これを、思邦歌クニシノビウタという。

えええ❗(o゚Д゚ノ)ノこれはヤマトタケルの絶唱⁉️

ですね。まあ、もともとは大和の寿ホぎ歌だったのでしょうが、使い方でいうと「古事記」の方が秀逸なのは否めません。
それをわざわざ作り替えるのかなあ?という疑問がずっとあり、
そう思うとこの使い方を見た「古事記」の作者が、気に入らなくて作り替えたんだという方が、スッキリするような気がします。

このあたりに来ると、「古事記」と「日本書紀」の内容の解離が大きくなってきます。(例えばヤマトトトビモモソビメが「日本書紀」でしか活躍しないとか)

私は神代の間は、「古事記」の作者は「日本書紀」の編纂事業に携わっていた気がします。例えば一書にも「古事記」に近いものが多くありました。

ところが、神武天皇以降は
「日本書紀」はほぼ異伝を載せなくなり、「古事記」は「日本書紀」と異なる伝承を書いていきます。

おそらく新しく作られた神代の編纂は、天皇家の事情も考慮して、皆で作り上げて行き、意見の相違を網羅しながら進んだものの、
ある程度伝承が残っていた崇神天皇以降の編纂は、学者たちが残っていた伝承を拾い集め、
天皇中心に、あるいは中国風にアレンジして作ったために、ストーリー性には考慮されなかったし、各氏族の思惑や要求もいろいろあって、
各伝承ごとに分担されたりして、パッチワークのようなところもあり、

文学者であった「古事記」の作者は、結局編纂の現場から退いて、独自にストーリー性のある歴史書を書いたように思います。


18年春3月、天皇は都にお出ましになろうとして、筑紫ツクシの国を視察された。

最初に夷守ヒナモリ(宮崎県小林市)に到着された。
この時に岩瀬川のほとりに群衆が集まっていた。
天皇は、遥かに眺められて、側近に、
「あの集まっている者は何だろう。もしや賊だろうか。」とおっしゃった。

そこで兄夷守エヒナモリ、弟夷守オトヒナモリの二人を遣わして見させられた。

そして弟夷守が帰ってきて、
「諸県君モロカタノキミ泉イズミ媛が、 帝にお食事を奉ろうとして、その一党が集まっているのです。」と申し上げた。

ここで「夷守」と出てきます。地名でもありますが、首長の名でもあります。

ヒナモリについては、「魏志倭人伝」に

東南の奴国まで百里で至る。官を兕馬觚と言い、副官を卑奴母離と言う。二万余戸ある。
東行して不弥国にまで百里で至る。官を多模と言い、副官を卑奴母離と言う。千余家ある。

とあり、卑奴母離はヒナモリと読めます。ここの官名は人名ぽいのですが、ヒナモリは役職ぽくもあり、よくわかりませんが、「魏志倭人伝」の「ヒナモリ」という言葉が確認できるのはすごいことです。


夏4月3日、熊県クマノアガタ(熊本県球磨郡、人吉市付近)に到着された。そこに熊津クマツ彦という兄弟がいた。
天皇は先ず兄熊エクマを呼ばれた。
兄は使いに従ってやってきた。
そして弟熊オトクマも呼ばれた。
しかし弟はやってこなかった。
そこで兵を遣わして討たれた。

熊襲の場所は熊本県球磨郡(人吉市付近)と鹿児島県曽於市、霧島市を合わせて指すとも言われていましたが、はっきりしません。ただ今回の征討の対象はここを含む九州南部です。

11日、海路から葦北アシキタ(熊本県葦北郡、水俣市付近)の小島に泊り、食事をされた。
そのとき、山部阿弭古ヤマベノアビコの祖先である小左オヒダリを召して冷たい水を献上させた。
当時、島の中に水がなかったので、(小左は)どうしようもなくて、天を仰いで天つ神国つ神に祈ると、たちまち冷たい水が崖の傍らから湧き出たので、それを汲んで献上した。
それで、その島を名づけて水島という。
その泉は今でも水島の崖に残っている。

5月1日、葦北から船出して火国(肥前=長崎県、佐賀県・肥後=熊本県)に到り、ここで日が暮れた。夜は暗くて岸に着くすべがなかった。その時遥かに火の光が見えた。
天皇は船頭に詔して、
「まっすぐに光源を指して行け。」と命じられた。
それで火に指して行くと、岸に着くことができた。

天皇はその火の光る所を、
「何という邑か?」と聞かれた。
在地の人は答えて、
「これは八代県ヤツシロノアガタの豊トヨ村です。」と申し上げた。
また(天皇は)
「これは誰の炊いた火か?」と問われたが、火の主が判らなかった。
人の火ではないということが知れて、(不知火シラヌヒ)その国を名づけて火国(肥の国=肥前、肥後)とした。

火の国って阿蘇山があるからだと思ってたら、不知火が語源だったのですね❗
不知火シラヌイとは八代海や有明海で旧暦8月1日前後に現れる蜃気楼の一種だそうで、妖怪とも言われていましたが、「日本書紀」には神とも妖怪とも書いてないのが、なんとも儒教的な「怪力乱神を語らず」ですね。


6月3日、(天皇は)高来県タカクノアガタからタマキナノムラにお渡りになった。
その時、そこの土蜘蛛ツチグモの津頰ツツラという者を成敗した。

16に阿蘇アソ国に着かれた。
その国は野が広く遠くまで続き、人家は見えなかった。
天皇は、
「この国に人はいるのか?」と聞かれた。
その頃(阿蘇には)二人の神がいた。阿蘇津彦アソツヒコと阿蘇津媛アソツヒメといった。彼らは突然人の姿になって参上し、
「私たち二人がおります。どうして人がいないと言えましょうか?」と申し上げた。
それでその国を名づけて阿蘇という。

今さら「阿蘇」と名付けなくても、阿蘇にいるから阿蘇津彦だろうと思うのですが('_'?)
まさか昭和天皇ばりに
「あ、そう」と仰ったわけでもないでしょうが(^^;)

さて、ここから筑紫(福岡県=筑前、筑後)です。

もともとは筑紫郡 (福岡県にあった郡。現在の福岡県筑紫野市・春日市・大野城市・太宰府市・那珂川市と福岡市の一部の地域に相当。筑紫地域 - 福岡県の4つの地域区分のうち福岡地方に属する地域=Wikipedia)をさす「筑紫」ですが、九州全域をさすこともあるのでややこしいですが、ここでは後の筑前・筑後を合わせた筑紫国をさします。

これまでの行程はこちらで


青い字の地名は邪馬台国の国々ですが、不思議とこの征討範囲はそこを避けています。次回はそれについて考えてみたいと思います。

またの御訪問をお待ちしております。