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さてヤマトタケルの物語は、古典の教科書にも出てくるので、古代の物語としてはかなり完成された物語であるのですが、


原型を探ると「小さ子」というとても素朴な、古代らしい伝承であったということを述べまいりました。


それでは、そういった素朴な伝承が、いつの頃宮廷に取り入れられ、英雄伝説として変容して行くのか、ということなのですが、


ヤマトヲグナについては推古朝の可能性が高いということが推定できます。


そこで今回はその一部始終を明らかにしていこうと思います。


さて、以前にも述べましたが、

ヤマトタケルの系譜には分裂が見られ、景行天皇の4代前の倭建命、

景行天皇の子の小碓命=倭男具那命は

もともと異なる人格であったと考えられます。


加えて砂入恒夫氏は、

「古事記」において、西征の物語と東征の物語では表現上もたいへん異なっているという事を指摘されました。


前に簡単に紹介しましたが、ここで砂入氏による東征と西征の相違点をまとめておくことにいたしましょう。


まず、一番はっきりとした違いは、敵対勢力が誰か、という事です。

西征の方は熊襲建、それから次の建部考で取り上げる出雲建といった確定した人間が主体となっています。


ところが東征では「東方十二道の悪しき人等」というざっくりとした人間と、「山河の荒ぶる神」などのこれもざっくりとした神々になっていることです。

ひとつには対人間だけか、神々も敵になるのかということですが、


もうひとつは砂入氏が

東征伝説の背景にはヤマトタケルに敵対する勢力の存在をできるだけ抽象的に漠然と記して、それが顕在化することをできるだけ回避したい、という配慮が働いている気配が感じられる。

と言われるように


敵の存在がぼんやりしていて、例えば漫画やアニメにすると戦闘シーンが全く描けないことになってしまいます。

ヤマトタケルの漫画はけっこうありますが、実際東征は漫画家泣かせなのかもしれません。西征のようにバトルシーンがなく、いろいろ展開がたいへんなのです(;^_^A


砂入氏は東征の表現について

肝心の先頭についての具体的描写はほとんどなくて、それに代って観念的な説明があるだけ

として、
とくにそういう描写の代表的な表現である「言向け和す」(ことむけやわす)

実は「御剣」、すなわち伊勢神宮にあった草薙剣に関するものであると指摘されています。


これは例えばヤマトタケルが蒜(野蒜=ネギの一種)で、足柄の神を殺すところは「打ち殺したまひ。」とあり

素手で向かった(草薙剣は置いてきたのです)伊吹山の神との対決も
「今殺さずとも、還らむ時に殺さむ。」と書かれていることから

前述の「配慮」というのは、東征が伊勢神威譚の性格を持つことに根差しているとされました。

また「なまなましくて、時にはどぎつい」表現の西征の方は、伊勢神威譚の要素がないことも明らかにされたのですが、

それは前回に検証した

「西征のヤマトヒメは斎宮倭比売命ではない」

という命題に一致するものなのです。


また、ヤマトヲグナ考のはじめにあげた西征の物語を読んで頂くとわかりますが、

大碓命や熊襲建の殺害の描写はかなりエグい表現でしたヽ(;゚;Д;゚;; )ギャァァァでしたねw

また次に出てくる出雲建の殺害は完全にだまし討ち(;´Д⊂)


砂入氏はこういった表現ややり方が
「古事記」では履中天皇や安康天皇の条に見受けられるのに注目されています。

この履中天皇は堺にわが国最大の陵墓がある仁徳天皇の子で、「倭の五王」の初代の「讃」は仁徳天皇かこの履中天皇だと言われています。


また、安康天皇は「倭王武」といわれる雄略天皇の兄で、「倭王興」の候補者の一人です。

砂入氏は、「倭の五王」の時代の王たちが、敵対勢力の事を決して「コトムケヤワ」したりしないこと


また皇祖神天照大神が一度も出現せず、天照大神に関係する物語もないことから


同じ表現傾向を持つ西征の物語の成立が、天照大神を祖神とする皇統譜の成立(天武、持統朝)以前であると考えられました。

それでは西征の物語成立の上限がいつか?ということですが
これにはよいヒントがあります。

ヤマトヲグナの熊襲征伐が女装をして行われることについて、新羅花郎との共通点があることは、古くは三品彰英氏によって指摘され、主流ではないもののいくどか問題提起されてきました。


そこで、とりあえず花郎の説明をしておきますと


4世紀の半ば以降、朝鮮半島の南東部の慶州を首都にした新羅(日本ではシラギと読みます。)という国がかつてあり、百済、高句麗と鼎立していました。


この時代を「三国時代」と言い、ちょうど大化の改新の頃、7世紀半ばまで続きます。

その新羅に「花郎」(ファラン)と呼ばれる青年貴族による軍事集団がありました。

この集団は古来、巫女を擁した戦闘集団であり、そのあたりは日本のヒメヒコ制のようなかたちであったのですが、6~7世紀になって女装した少年を戴くようになったといわれます。


彼らは一種の社交集団でもあり、この少年を弥勒の化身、弥勒仙花とする思想を持っていたようです。


もしもヤマトタケルの女装が新羅花郎の影響で語られており、
斎宮派遣が常態化し、伊勢の天照大神の信仰が成立する、天武天皇の時代以前の成立とするならば、
ヤマトヲグナと小碓命の物語は6世紀以降、7世紀半ば以前の成立と確定できるのです。

これは5世紀の「倭の五王」の時代の記録の成立とも矛盾しませんし、
6世紀の欽明天皇の時代に成立したのじゃないか?という「帝紀」「旧辞」といった歴史書や
720年に編纂された「天皇記」「国記」がこの時期に成立しています。

そこで最近提示された瀧元誠樹氏の小碓命=ヤマトヲグナが「花郎」の影響下にあるという論説にしたがって見ていこうと思います。


まず瀧元氏によるとヤマトタケルは

1)容姿端麗な少年が化粧をして女装をしていること。

2 )遊び歩きをすること。
(瀧元氏は「遊ぶ」は「神遊び=神事」と指摘しています。)

3 )歌舞の能力に秀でていること。(宴に紛れ込んで踊ったりしてもばれないところからです。)

4 )戦士として武技の能力に秀でていること。

と花郎との共通点を挙げられ、また

白州正子が原始的な社会では武芸と歌舞はたいへん似ており、武芸や歌舞の行われる場は人間と神の交流する神聖な場であると述べるように 、これら4つの共通点の基底にあるものは、人間 と神や霊威 との交流を可能とする呪術的能力といえないだろうか 。


 熊曾建征討の段における倭建命の女装は、ただ女装だけを取り上げてみると倭比売命 ・伊勢大神宮の霊威を身につけるという解釈でおさまってしまう。 しかし、女装をする新羅の花郎の習俗と比較検討してみると、倭建命は人間と神や霊威との交流を可能とする呪的方法としての武技や歌舞に秀でていたことが確認できた。そして、「武」と「舞」を体現する能力を持ち合わせる者として倭建命をあげることができるだろう。


と述べられています。


ヤマトヲグナが熊襲を討伐するその場は「古事記」では「御室楽ミムロウタゲ」と描かれますが、

(「日本書紀」は宴に「にひむろうたげ」と訓じている。)


折口信夫氏が


顕宗天皇・仁賢天皇若くして、播磨の奥、縮見シジミの邑に隠れ居られた時、新嘗使ニイナメノツカイとして、其家主細目クワシメの家を訪れた山部小楯を中心にした新室宴ニイムロノウタゲに、弘計ヲケノ王の唱へられた「室寿詞ムロノヨゴト」が伝つてゐる。


というように、新築の宴はむしろ新嘗祭ニイナメサイのような、神事を行う場であったというのは古くから指摘されており、


そこでの歌舞は祭事に準じるものだというイメージは花郎に近いものがあるといえるでしょう。


このように素朴な小さ子の姿から、女装の美少年への変身の契機に新羅花郎の存在を見たとき、

そこにはどのような歴史との関わりが生まれるのか?


いったい誰が新羅花郎との融合を思い付いたのか?


次回は伝承成立期を特定するための検証を重ねたいと思います。


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月岡芳年「芳年武者无類」日本武尊