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長くなってしまうので2回に分けましたが、「日本書紀」の続きの

天日槍アメノヒボコの記事だけあげておきますね。

出石神社(兵庫県豊岡市出石町)

(垂仁天皇)3年春3月、新羅王子、天日槍アメノヒボコがやって来た。持ちきたる物は、
羽太ハフトの玉一箇・足高玉一箇・鵜鹿々ウカカの赤石アカシの玉一箇・出石イズシの小刀一口・出石イズシの桙ホコ一枝・日の鏡一面・熊の神籬ヒモロギ一具ソナエ、併せて七物あった。
そこで但馬国に収蔵して、常に神の物とした。

但馬国の一之宮、出石神社(豊岡市出石町)には天日槍の神宝が祀られています。しかし、出石の名が入っていたり、この神宝が新羅からの到来品といえるかは疑問(^^;)
強いていえば、熊の神籬ヒモロギがコマ(高麗)の神籬っぽい?

出石神社についてはずいぶん前に記事があります。(ほぼ記事がないから見なくて大丈夫ですw)


出石蕎麦が有名なところです(*≧∀≦)


一に云うには(別伝)、
初め天日槍は、船に乗って播磨国に停泊し、宍粟シサワ邑(播磨国宍粟郡=兵庫県)にいた。時に(垂仁)天皇は、三輪君の祖の大友主と倭直の祖長尾市を播磨に遣わして、天日槍に尋ね
「そなたは誰だ?またどこの国の人か?」と聞いた。

天日槍は答えて
「わたくしは、新羅国王の子です。けれど、日本国に聖皇がおられると聞いて、すぐに自分の国を弟の知古チコに譲って参り来たのです。」と答え、

そこで貢いだ献上品は、
葉細ハボソ珠・足高珠・鵜鹿々ウカカの赤石アカシの珠・出石イズシの刀子カタナ・出石イズシの槍ホコ・日の鏡・熊の神籬ヒモロギ・膽狹淺イササの大刀、併せて八物あった。

そこで(天皇が)天日槍に
「播磨ハリマ国(兵庫県南西部)の宍粟邑シサワノムラ(宍粟シソウ市)、淡路島(兵庫県南部)の出浅邑イデサノムラ(現在地不詳)、是の二つの邑なら、そなたの好きなところに住むが良い。」と仰せになった。
その時、天日槍が申し上げるには、
「私の住む場所ですが、もし天皇がご配慮くださって、私の希望する地をお許しくださるのであれば、私は自分で諸国を巡り、自ら見ることで、自分の気持ちに合うところを頂戴したいと思います。」と答えたので、それをお許しになった。

そこで天日槍は、菟道河ウジガワ(京都府の宇治川)を遡って、北の近江国(滋賀県)吾名邑アナムラ(米原市?or草津市?)に暫く住んだ。

この別伝の方が詳しいのですが、
ここで宍粟や阿那といった地名が出てきました。

宍粟のある「播磨国風土記」には、
天日槍について地名起源説話が記されていますので、Wikipediaより転載します。半角振り仮名は水無瀬

・揖保イボ郡揖保里 粒丘イイボオカ条
客神(外来神)の天日槍命が、韓の国から海を渡って宇頭ウズ川(揖保川・林田川の合流点付近か)の川辺に着き、当地の長たる葦原志挙乎命(あしはらのしこおのみこと)に宿所としての土地を求めると、志挙シコヲは海中に宿ることのみを許した。
これを受けて天日槍命は剣で海をかき回し、出来た島に宿った。志挙はその霊力に畏れをなし、天日槍命よりも先に国を抑えるべく北上し、粒丘に至って食事を取った。その時に口から飯粒が落ちたため、「粒丘(いいぼおか)」と称されるという(たつの市揖保町揖保上の北のナカジン山に比定)。

アシハラノシコヲはオオナムチ、すなわち大国主命です。出雲神話の最高神ですが、播磨国一之宮の伊和神社の祭神伊和イワ大神はアシハラノシコヲなのです。

つまり播磨は出雲の信仰圏で、そこに外来のアメノヒボコがやって来た、しかも王子なんかじゃなくて、島を作っちゃう神❗です。

ここは揖保郡、揖保乃糸という素麺がありますが、その産地です。
で、以下が宍粟の伝承です。

・宍禾シサワ郡比治ヒジ里 川音村条
天日槍命が村に泊まって「川の音がとても高い」と言ったので「川音村(かわとのむら)」と称されるという(宍粟市山崎町川戸付近に比定)。
・宍禾郡比治里 奪谷条
葦原志許乎命と天日槍命の2神が谷を奪い合ったので、「奪谷(うばいだに)」と称されるという。
・宍禾郡高家里条
天日槍命が「この村の高さは他の村に優っている」と言ったので「高家(たかや)」と称されるという(宍粟市山崎町庄能から山崎付近に比定)。
・宍禾郡柏野里 伊奈加川条
葦原志許乎命と天日槍命が土地の占有争いをした時、いななく馬がこの川で2神に遭遇したため「伊奈加川(いなかがわ)」と称されるという(菅野川に比定)。
・宍禾郡雲箇里 波加村条
伊和大神の国占有の時、天日槍命が先に着き、大神は後から来たが、大神が「対策をはかりも(考えも)しなかったから天日槍命が先に着いたのか」と言ったので「波加村(はかのむら)」と称されるという(宍粟市波賀町安賀・有賀・上野付近に比定)。
・宍禾郡御方里条
葦原志許乎命と天日槍命が黒土の志尓嵩(くろつちのしにたけ)に至り、それぞれ黒葛を足に付けて投げた。葦原志許乎命の黒葛のうち1本は但馬気多郡、1本は夜夫郡(養父郡)、1本はこの村に落ちた。そのため「三条(みかた)」と称されるという。一方、天日槍命の黒葛は全て但馬に落ちたので、天日槍命は伊都志(出石)の土地を自分のものとしたという。
また別伝として、大神が形見に御杖を村に立てたので「御形(みかた)」と称されるともいう(宍粟市一宮町の北半部に比定)。
・神前カムサキ郡多駝タダ里 粳岡条
伊和大神と天日桙命の2神が軍を起こして戦った際、大神の軍が集まって稲をつき、その糠が集まって丘となったが、その箕を落とした糠を墓といい、また「城牟礼山(きむれやま)」というとする(姫路市船津町八幡の糠塚に比定)
(別伝は省略)。略。
・神前郡多駝里 八千軍条
天日桙命の軍兵が8,000人あったため「八千軍野(やちぐさの)」と称されるという(神崎郡福崎町八千種付近に比定)。

これらを見ると、天日槍がアシハラノシコヲ=大国主命と争ったというのが分かります。
これを出雲系の製鉄集団と、新羅系の製鉄集団の争いという見方もあります。

ということは、本来天日槍は王子ではなく、渡来系集団の奉じる祖先神であったということでしょう。

天日槍の伝承地と製鉄との関係は、学会でも有力です。

では「日本書紀」に戻りましょう。

またさらに近江より若狹ワカサ国(福井県南西部)をへて、西の但馬タジマ国(兵庫県北部)に到って定住するところとなった。

それでもって、近江国の鏡村の谷ハザマの陶人スエビト(半島系の須恵器を作る人)は、天日槍の従者であった。

縄文土器から弥生式土器、古墳時代の土師器ハジキなどの土器は、いわゆる素焼きで、赤みを帯び、強度もありませんでした。それは焚き火で焼く野焼きで作られていたため、焼成温度も900度が精一杯だったからです。

一方、須恵器は地下式・半地下式の登り窯を用いて1100度以上の高温で焼くことで強く焼締まり、硬度も上がり、色は灰青色になります。
当時の最先端の技法ですが、おおむね5世紀頃から日本に入るので、
天日槍の神話は、出雲が栄えていた弥生時代の渡来と考えられる反面、
5世紀の事情を投影しているとの見方もできます。

そして天日槍は、但馬国の出嶋イヅシ(兵庫県豊岡市出石町)の人、太耳フトミミの娘、麻多烏マタオを娶って、生んだのが但馬諸助タジマノモロスクである。諸助が、但馬日楢杵タジマノヒナラキを生む。日楢杵は、淸彦キヨヒコを生む。淸彦が、生んだのが田道間守タジマモリである。

さて、この清彦ですが、
垂仁天皇88年に(垂仁天皇は生きてますが、天日槍の方は曾孫の代になってますね!)

88年秋7月10日、(垂仁天皇は)詔して群卿に
「朕が聞いたのだが、新羅王子の天日槍は、初めて日本に来た時、宝物を持ってきて、それが今但馬にあるらしい。元の国の人が見て尊んだので、神宝となったものらしい。朕はその宝物を見たいと思うぞ。」と仰せになった。

そこでその日に使者を遣わして、天日槍の曾孫の淸彦に宝物を献上することを命じられたので、
淸彦は勅を受けて、自ら宝物を捧げて献上した。
羽太ハブトの玉一箇・足高の玉一箇・鵜鹿鹿ウカカは赤石アカシの玉一箇・日の鏡一面・熊の神籬一具。ただし小刀が一振りあり、名を出石イズシといったのだが、淸彦はとっさにこの刀は献上しないでおこうと思って、それを上着の中に隠れるように佩刀した。
天皇は、小刀を隠したということをご存知なくて、淸彦を気に入ってお召しになり、酒を御所で賜った。その時、刀が上着の中から見えてしまった。

天皇はこれを見て、直接淸彦に
「そなたの上着の中の刀は、何の刀であるか。」と問われた。
そこで淸彦は、刀を隠せなくなって
「献上した神宝の仲間でございます。」と言った。
そこで天皇は淸彦に
「其の神宝は、どうして仲間と離れることがあろうか。」仰せになったので、これも出して献上した。これらは皆、(石上神宮の)御蔵にお納めになった。

こうして後、御蔵を開けてこれを見たところ、小刀は自ら失くなっていた。
そこで淸彦に質問させて
「そなたの献上した刀が突然消えてしまった。もしやそなたのところに行ってないか?」と聞かれた。
淸彦は
「昨日の夕方、刀が自然と私の家にきました。それで今朝には失くなっていたのでしょう。」と答えた。
天皇は畏まり、再びそれを求めることはなかった。

是の後、出石の小刀は、自然と淡路嶋に行った。其の嶋(淡路島)の人は、神だ❗と思って刀のために祠ホコラを建てた。
是れが今においても祀られているのである。(兵庫県淡路島の出石神社)

昔、一人の人が船に乗って但馬国に停泊したので、「お前はどこの国の人か。」と聞くと
「新羅王子、名は天日槍。」と言った。
そこで但馬に留めて、其の国の前津耳マエツミミ(一に云う前津見マエツミ、一に云う太耳フトミミ)の娘、麻拕能烏マタノオを娶って、但馬諸助を生む。是れは淸彦の祖父である。

最後は同じような系譜ですが、出石の小刀が、彼らにとってとくに重要だということでしょうか?
それならなぜ淡路にあるのか?

おそらく分家が淡路にもあったんでしょうね。
最初に淡路でも阿那邑でも住んでいいよーって言われたところは
(断ったのにw)天日槍の神社があります。

神宝の献上=服属儀礼ですから、
崇神天皇で国内の平定、
垂仁天皇で、外国人の渡来と服属を語るのが、当初からの「日本書紀」の構成だと思われます。

そうなるとその前に大和の平定で神武天皇が構想され、欠史八代はやはり当初の歴史書にはいれるつもりはなかったように思えます。

さて阿那邑なのですが、
近江国(滋賀県)の米原市の「阿那郷」とも、
草津市の穴村の安羅神社ともいわれますが、
天日槍の子孫に息長帯姫尊(神功皇后)が出現するので、のちに「息長オキナガ」と言われる「阿那郷」の方が有力かと思います。

けど、安羅神社には行ったので(^^;)
いちおうそちらを……


次回は少しピグやら大河の方を書かせていただき、
「日本書紀」はホムツワケのお話で……

続けてのご訪問、お待ちしております。