前回、出雲振根フルネが弟の飯入根イイイリネを騙し討ちにした話を載せましたが、
今回は「古事記」のヤマトタケルによる出雲建征伐の部分を載せておきます。
それから(倭建命は)出雲国に入られて、そこの出雲建を殺すことにと思い到られて、すぐに(出雲建と)友だちとなられました。
そして、ひそかにイチイの木で偽の刀を作り、ご自分の佩刀として腰につけ、肥の河で水浴されました。
そこで倭建命は河から先に岸に上がり、出雲建が解いて置いていた刀を腰につけ、「刀を取り換えっこしないか。」といわれました。それで、出雲建も河から上がって、倭建命の刀を腰につけました。
その時倭建命は「さあ、手合わせしてみよう。」と誘われましたが、刀を抜き合わせる段になって、出雲建の太刀はにせものですから抜くことができませんでした。たちまち倭建命は自分が差した出雲建の刀を抜いて出雲建を打ち殺してしまわれました。
ここで歌を詠まれたのには
やつめさす 出雲建が 佩ける刀タチ
黒葛ツヅラ多纏サワマき 真身サミなしにあはれ
出雲タケルが佩いている太刀は、黒葛をたくさん巻いて立派なのに、刀身がなくてかわいそうだw
と歌われました。
これねー( ̄▽ ̄;)英雄としてどうなん❓️という話ですがwそっくりそのままですよね。
ところがこの部分を読むと、事件の現場や出雲建をそもそもなぜ?征伐しなきゃならんのか?といういきさつも不明です。
一方、出雲振根の話で出てくる止屋淵ヤムヤノフチはどういう場所かというと、
肥河ヒノカワ(現在の斐伊ヒイ川)は、宍道シンジ湖に付け替えが行われる前は西に向かって日本海に注いでおり、国引き神話やヤマタノオロチ、国譲りなどの有名な神話はこの地域で語られていました。
その土砂の運搬量は膨大で、運ばれた土砂でできた砂嘴は河口をふさぎ、神門の内海と言われる湖状の海を作っていました。浜名湖のようなものです。
止屋淵はまさにその一部で、出雲神話のメッカともいうべき場所にあります。
しかもこの西出雲は、大国主命を祀る杵築大社(出雲大社)があり、荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡のある場所です。
ですから出雲の王権のただ中で起きた事件という意味がありますね。
飯入根が崇神天皇に神宝を献上したとか、振根が筑紫へ行ってたとか、いきさつも具体的です。
その点でも、こちらがもとの伝承だといえるでしょう。
(ヤマトタケルの方は「古事記」の作者が悲劇性を強調するために、構成を変えており、これも勇猛さや身勝手な行動を示すために挿入されたと考えられます。)
では、このあと出雲振根はどうなったのでしょう?
甘美韓日狹ウマシカラヒサ・鸕濡渟ウカヅクネは朝廷に参上して、状況を詳しく説明した。
(天皇は)すぐに吉備津彦(吉備氏の祖)と武渟河別タケヌナカワワケ(阿倍氏の祖)を派遣して、出雲振根を殺した。
おや?四道将軍の二人が出てきました。
そこで出雲臣らはこの事で畏れはばかって、しばらく大神(出雲大社)を祀ることをやめていた。
その頃丹波の氷上ヒカミの人、名は氷香戸邊ヒカトベが、皇太子の活目尊に申し上げて、
「私の子にまだ幼児がおりまして、そのの子がこのように勝手に言うのには
玉菨タマモに鎭まる石。出雲人の祭る、眞種マタネ之ノ甘美ウマシ鏡。
押羽振オシハフル、甘美ウマシ御神、底寶御寶の主。
山河之水に泳ククる御魂。靜挂シズカけて甘美ウマシ御神、底寶御寶の主也。
玉藻の中に沈む石のように、
出雲の人の祈り祭る、本物の見事な鏡。
それは力に満ちた立派な神さま、
水底の宝、宝の主。
山の河の水に潜る御魂は、
しずかにます立派な神さま、
水底の宝、宝の主です。
これは子供の言葉と思えないことです。もしや何かに取憑かれたのでしょうか?」
といった。
そこで皇太子は天皇にこの事を申し上げた。そこで天皇は詔勅をして出雲の神をまつらせた。
しかもこの皇太子活目尊(垂仁天皇)の代には、
ホムチワケ(ホムツワケ)というものが言えない皇子がいて、「日本書紀」には明記はされないのですが、「古事記」には出雲の大神の祟りが原因と書いてあります。
するとこのような事件があったこととの連続性がでてきます。
もし「古事記」にもこの話があって、ホムツワケの話が語られていたなら、繋がりがより分かりやすいでしょう。
ですから、もともと「古事記」もこの話があったと推測されます。
しかもそこには国譲りではなく、リアルな出雲の服属の事情が語られています。
ここで思い出していただけるでしょうか?
弥生時代の博多湾貿易においては
北部九州と山陰の土器が多くみられ、両者が貿易の中心にいたと言えます。
もし両者がライバルであれば、
それはすなわち、北部九州が高天原で、山陰が葦原中つ国=出雲ということになります。
もしかすると崇神天皇は高天原から遣わされたのかもしれません。
博多湾貿易においては、瀬戸内海の諸地域は、北部九州に依存していたとみられるので、
中部瀬戸内や大阪湾岸に砦や逃げ城とされる高地性集落のみられた弥生中期、この時代が「倭国大乱」の時代と考えられるのですが、
それが終わる頃には西日本の諸地域も、半島との貿易を行うために、北部九州との交渉を始めたと思われ、
その時代の三輪王権ならば、仮に崇神天皇が北部九州から来たのでなくても、北部九州の意を受けて、出雲攻略を図ったとも考えられます。
あるいは、纒向遺跡から北部九州の土器がでないとあれば、北部九州からの独立志向の強い政権が、出雲の持っている貿易権を奪おうとしたのかもしれませんが、その場合は初期の前方後円墳に見られる吉備系の特殊器台や、突然始まる鏡を重要視する葬送儀礼などの説明が難しくなります。
高地性集落は弥生後期に近畿とその周辺部にほぼ限定されていますが、古墳時代前期には、西日本の広島・鳥取に、北陸の富山・石川・新潟に分布するといいます。
これはまさに四道将軍の征討の道筋です。こうなると、四道将軍も全くのでたらめではなくなるのですが、
この時代に高地性集落のある吉備、丹波、越を押さえることは、
場所から考えて出雲の包囲網だと想像できます。
なぜなら、出雲は神話からも出土品からも、北陸地方との交易を行なっており、
博多湾から半島へヒスイなどを輸出し、半島や大陸の技術や文物を輸入していた
と考えられるからです。
もし北部九州の政権がライバル出雲の弱体化を狙うとしたら、
まずは富の源泉である越との交易を断つこと。
そのためには、越を制圧するのも大事ですが、海路の中継地になっている丹波(丹後)も押さえたい。
そして軍事的圧力をかけるなら、出雲の東側の丹波と南側の吉備と同盟すれば、西側は北部九州の高天原から圧力をかけられます。
神武東征も四道将軍もこの筋書きの上なら、史実になりうるのです。
しかも高地性集落が北部九州にはみられない集落であるので、こういった軍事的な動きが北部九州から生じていると考えられるのです。
こうなると丹波の子供に出雲大神がとりつくのも分かりますよね。
たぶん丹波は出雲を裏切ったのでしょう。
こういった伝承から崇神天皇や垂仁天皇の時代に
親ヤマト派のイヒイリネが出雲の神宝が献上したことで、出雲独立派のフルネがイヒイリネを殺し、
それを口実にヤマトが侵攻するという展開で、出雲は滅んだのではないかと考えられるのです。
(もちろん国譲りなど後世に時代を遡らせて語った話ということになります。)
また「出雲国風土記」には
出雲郡健部タケルベ郷の由来が載っています。
のちに健部タケルベ郷となったわけは、景行天皇が(倭建命の死後)「我が子の名を忘れないようにしよう」とおっしゃって健部を定めた。
その時神門臣古禰フルネを健部と決めた。そうして健部臣等は、昔から今に至るまでずっとここに居る。それで健部という
ここにフルネが出てきましたね(?_?
時代も景行天皇の時ですから「日本書紀」と違うのですが、
上田正昭氏は、ヤマトタケルの征討ルートは全国の建部の分布と重なっており
、「日本武尊説話に結集する皇族将軍の征討によって、在地の有力軍事団が新らしく建部としてくみいれられていったことを間接的に傍証するもの」と言われます。
つまり出雲臣、またはお隣の神門郡の神門臣に伝えられていた伝承が、建部の設定を通して、ヤマトタケルに吸収されていったということが理解できるのです。
では建部とは何でしょう?
「部ベ」というのは様々な職能をもって朝廷に奉仕する人々の集団で、
一般的な農民の場合の部は、朝廷の直接の管轄である屯倉ミヤケや、
それぞれの土地や人民の管掌を任された皇族や豪族の名で呼ばれて
(蘇我部、穴穂部、長谷部など)そこからの収入が皇族や豪族の生活を支える名代ナシロや田荘タドコロがあります。
ですから、いわゆる「くに」がそれぞれ独立していた状態では成立できなくて、
大和朝廷がトップに立ち、各豪族に称号としての「姓カバネ」を与え、職掌を分担させる力を手に入れてからでなければ成立しません。
また、それとは別に、特別な技能集団として朝廷に奉仕する「部」もあり、(服部ハトリベ、犬養部イヌカイベ等)
こういった「部」の中で、軍事を担ったのが建部と考えられます。
おそらく「倭の五王」のころ、九州から関東を抑えた「大王オオキミ」は、各地の首長が所持、管掌していた軍事集団を、朝廷に奉仕する建部として吸収、編成したものと思われますから、
その頃には出雲臣はもう大和朝廷の支配下にあったのでしょう。
この出雲振根の物語には、こういった在地の首長の苦悩がよく表れています。その点でもこちらが元の伝承だといえるのではないでしょうか。
こういったことからも、出雲の平定は4世紀以降だと思われるのです。
筑紫(福岡県)の高天原、吉備(岡山~広島県)、そして丹波(兵庫県北部~京都府北部)によって包囲された出雲の国力は徐々に衰え、内部には和平派というべき親ヤマト派が生まれていました。
出雲は博多湾で半島と交易していましたから、フルネが筑紫に行くことはよくあったことでしょう。
イヒイリネはその隙をついてヤマトと和平交渉を行い、それをフルネが殺したことでヤマトが攻め込んできた。
具体的にこういうことが起きたかはわかりませんが、考古学の成果と伝承を合わせて考えると、大筋でこういうことが起きて出雲は高天原と同盟する吉備や大和に敗れたように思います。
では北部九州の高天原とは何かというと
この直前の時代は、筑紫の糸島郡(福岡県糸島市)を中心とする原の辻・三雲交易の時代になるのですが、
その末期にはちょうど邪馬台国が伊都国に一大率を置いていました。
「魏志倭人伝」では諸国が一大率を畏怖していたことが書かれていますから、一大率の監察は厳しかったのでしょう。
糸島から博多湾岸に交易の中心が移った背景は、意外とそんなところではないかと思います。
そして博多湾岸での交易では、邪馬台国は以前のような独占を維持できなかったとすれば、その交易に参入してきた出雲の排斥を目論むのも想像できます。
こうしてみると邪馬台国=高天原という図式が成立します。
わたしは卑弥呼=天照大神だということには全面的に賛成はしませんが、
こういった伝承や考古学の成果を合わせると、邪馬台国=高天原=北部九州というのは、やはり捨てがたい仮定だと思っています。
出雲のことは次の垂仁天皇の代も続きますので、詳しいことはまたお話をいたします。
最後に関連のリンクを貼っておきます。
次回もまたご訪問くださいませ。
参照~邪馬台国はいずこに?
参照~イリ王朝の興亡