ご訪問ありがとうございます。


まさかの「ダーウィンが来た!」で、長年の謎が解けてスッキリ~w

ピグで辰(ワニ)でも作ろうかな~( ̄∇ ̄*)ゞ


ちょっと補足をしておきますと

マチカネワニが龍のモデルだと最初に言われたかたは、爬虫類学者の青木良輔さんだそうです。


そのご著書の「ワニと龍」(平凡社新書)は、良書という評判も高いのですが、

740円の新書が、1月16日現在19,500円‼️( ̄□||||!!


これなら国会図書館でマチカネワニのところ(88ページ分)をコピーした方が安いというご意見もありました。


青木先生はコロナで亡くなられたらしいので、新しいご著書は望めなく、重版してもいいのに(・ε・` )


ただ「マチカネワニ 龍」でググるとご著書の内容をまとめたサイトもあるので、もしご興味があれば見て下さいね。


ちなみにマチカネワニはふつうの川にいるワニと違って、汽水湖などにすむイリエワニと同じく、海水に対する耐性があると考えられて、また日本の今の気候とマチカネワニの頃の気候はそんなに変わらないため、マチカネワニは温帯性の珍しいワニになると言います。


さて、前回はちょうど和珥ワニ氏だったのですが( ・∀・)

こうなってくるとワニ氏もなにやらマチカネワニと関係がありそうな無さそうなw


今でもたまに黒潮にのったイリエワニが、日本の南西部で網にかかることもあるらしいので、ちょっと考えてみてもいいかもしれません。


🐊🌊🐊🌊🐊🌊🐊🌊🐊🌊



さてさて、今回はこの前の続きの「三輪山伝説」というか「箸墓伝説」です。


昔から有名なお話で、能の「三輪」や文楽、前にご紹介した「妹背山女庭訓イモセヤマオンナテイキン」にもモチーフとして使われているお話です。



まず、「日本書紀」から(^^)


この後に

(というのはいつの後かわかりません。「古典文学大系」の頭注にも

「異なる資料を接続させた際の不手際か」とされています。例によってコピペの跡ですかね💧)


倭迹々日百襲姫ヤマトトトビモモソヒメ命は、大物主神の妻となりました。


大物主神とは三輪山の神様です。

三輪山は奈良盆地南東部の「磯城郡」にあるなだらかな円錐形の秀麗な山ですが、

この三輪山は山中に磐座イワクラがあり、

山そのものを祀る「大神オオミワ神社」には

拝殿だけで、神殿はありません。山全体が神様なので山を拝むのです(。-人-。)


そういう古い形態をいまだに残しているだけあって、いわゆる「国つ神」でも重要視されていて、葦原中つ国の王である「大国主命」と同体だとされています。


崇神天皇の宮が「磯城水垣シキノミズガキ宮」で、この神様にめちゃめちゃ祟られていましたね💧


けれどもこの神は、いつも昼はお見えにならず、夜に来られた。

ヤマトトト姫命(なぜか短くなる名前)は夫に

「あなた様はいつも昼間にお見えにならないので、お顔をはっきりとみることができません。お願いですから、しばらくここにおいでください。明日の朝にお美しく立派なお姿を拝見いたしたく思います。」と話した。


大神は、答えて

「それはその通りだね。私は明日の朝、そなたの櫛笥クシゲ=メイク道具入れに入っていよう。お願いだから私の姿を見て驚かないでおくれ。」とおっしゃった。


ここで、ヤマトト姫は心の中で、変じゃない?と思ったが、

夜明けを待って、姫が櫛笥を見ると、

まことに美しい小蛇がそこにいて、その長さも大きさも腰ひものようであった。


姫は、見るや否や、驚き叫んでしまった。Σ(゚∀゚ノ)ノ

その時、大神は恥じ入って、直ちに人の姿に戻られ、


そして妻に

「そなたは、我慢できずに叫んで、私に恥をかかせたね。私はもう帰って=離婚をして、そなたに恥を書かせよう。」とおっしゃり、

大空を翔って三諸山ミモロ=三輪山に登ってしまった。


そこでヤマトトビ姫は山を仰ぎ見て、後悔の余りへたり込んでしまった。

そして箸で陰ホト(女性器)をついて、お亡くなりになってしまった。


そこで大市に埋葬申し上げた。それで、その時代の人々はその墓を名付けて「箸墓」と言った。


この墓は、昼は人が作り、夜は神が作った。そして大坂山(大阪府と奈良県の県境にある山)の石を運んで作った。つまり、山より墓に到るまで、民衆たちが列をつくり、手渡しにして運んだのである。


その頃の人が歌って言うには

大坂に 継ぎ登れる 石群イシムラを 

手ごしに越さば 越しかてむかも

大坂山の上から下まで続いている多くの石だが、手渡しで渡せば、渡していけるかなあ


という事で、箸墓の起源伝承になります。

箸墓は最古といってもいいほどのスーパー初期巨大古墳で、こんな大きなお墓を作ったことがなかったわけですから、苦労の後が偲ばれます。


Wikipediaより


ただ、この墓に埋葬されたのがヤマトトビ姫かというと、そこもよくわからなくて、

Wikipediaによると

この箸墓古墳は、全国の古墳で最古級の3世紀中頃の築造と推定されており、邪馬台国畿内説の立場から、『魏志』倭人伝に見える「径百余歩」という卑弥呼の冢に比定する説がある(詳細は「箸墓古墳」を参照)。しかし『日本書紀』・『古事記』およびその原史料の『帝紀』・『旧辞』の編纂段階では、すでにヤマト王権の初期王陵とする伝承が失われ、新たな意味付けがなされている点が注目されている[9]。その中で、王族の墓は大宝令以後に「陵」から「墓」と称されるようになった点、箸は7世紀以降から支配層で一般的に使用されるようになった点、および『播磨国風土記』揖保郡立野条において箸墓伝承と同様の説話が見える点などから、元々は土師氏の伝承であったのが新たに三輪山伝承に付加されたとする説があり、加えて「はしはか」の墓名も「土師墓(はじはか)」に由来すると指摘される[9]

[9]^ a b 仁藤敦史 「記紀から読み解く、巨大前方後円墳の編年と問題点」『古代史研究の最前線 天皇陵』 洋泉社、2016年、pp. 18-20。

という事で、箸墓の名称が新しいこと、

古墳を作ことに携わった「土師氏」に関係する伝承とみられることから

被葬者がヤマトトビ姫かというと、それもまた断定はできなくなります。


しかもこの伝説の最初に示したように、ここの部分はどうも「日本書紀」お得意のコピペらしいこと、

逆に「古事記」には全くといっていいほどヤマトトトビモモソビメの伝承がないこと、


そういった事も考えると、

箸墓が古いのは事実だけども、

もとは土師墓と呼ばれていて、その名称や伝説は、「古事記」の編者が、(わたしは柿本人麻呂ではないかと検証していますが)国史編纂委員会的な集まりから抜けたあとになって、つまりは持統朝になって組み入れられた疑いを持たざるを得ないのです。


加えてWikipediaによると、ヤマトトトビモモソビメの信仰圏は

信仰
「吉備津彦命#伝承・信仰」も参照
上記の通り彦五十狭芹彦命(吉備津彦命)の姉神として扱われるため、旧吉備国の周辺地域(主には備前国・備中国・備後国・讃岐国)に根強い吉備津彦信仰において女性の守護者ないしは水神として祀られる事が多い。特に讃岐国一宮である田村神社では地域の水神と習合し、主祭神として扱われている。

という風に、吉備にあるのです。

そして、箸墓古墳からも出土し、「特殊器台」といわれる円筒埴輪の原型となったものは、もともとは吉備で発生・使用されたものであり、
土師氏の故郷である出雲の四隅突出墓からも出土しているとなれば、

かりに箸墓にヤマトトトビモモソビメが埋葬されていたとしても
土師氏系の伝承の上に生まれた関係であったとする方が、原型に近いように思います。

では、「古事記」の方はどのように、三輪山伝説を扱っているかといいますと

このオホタタネコという人が神の子であると知ったわけは以下のとおりである。

(オホタタネコとはこの前、大物主神の子で、その祭祀を任せられた人です。)


先述した(オオタタネコの母の)活玉依毘売イクタマヨリビメは、その容姿がとても優れていました。

そこに、男がいて、その姿も身なりがたぐいもなく立派でした。

その人が、夜中に、思いもかけず姫のところにやってきたのです。


そして、二人は互いに心惹かれ、結ばれ、一緒に暮らすうちに、
いくばくもたたないうちに、その美しい姫は身重になってしまいました。

そこで、姫の両親は、娘が妊娠したことをいぶかしがって、
「お前はいつの間にか身重になっているが、夫もないのにどうして身ごもったのだ?」と聞きますと、

姫は答えて
「実はイケメンがいて、名前も知らないのですが、毎夜、私のもとに通ってきて、共に暮らしている間に、自然に身ごもってしまいました。」といいました。

それでもって、両親は、その人のことを知りたいと思い、娘に教えて
「赤土を床の上にまいて、糸巻に巻いた紡いだ麻糸を針に通しておいて、
その男の衣の裾に縫い付けておきなさい。」といいました。

それで、姫は教えられたとおりにして、朝になってみてみると、

針を付けた麻糸は戸の鍵穴から通り抜けて出ていて、残っている麻糸は三巻き=三輪ミワだけでした。


これで、すぐその男が鍵穴から出ていった状態だとわかり、
糸の延びて行くままに跡をたどれば、三輪山に到って、

神の社にとどまっていました。それで、その子(オオタタネコ)が神の子と分かったのでした。


そして、その糸が三輪残っていたことによって、その土地を名付けて「三輪」というようになったのです。


このオオタタネコ命は神君ミワノキミ、鴨君カモノキミの祖先です。

とあります。


神話学や民俗学で言うと、まずこういう神婚譚は、それによって神様や先祖などが生まれるのが一般的です。

例えば京都の上賀茂神社の祭神賀茂別雷カモノワケイカヅチ神は、乙訓オトクニ(京都府向日市)の火雷ホノイカヅチ神が丹塗矢に化けて、

下鴨神社の建角身タケツノミ命の娘玉依タマヨリ姫との間に成した神様です。


だいたいが、神様が自分の氏族の娘と結婚してできた子が氏族の祖神だと言う方が、祖先を立派に見せる目的があるので

まあ普通のことなのですね。

天皇や将軍のご落胤だと言う話に似てるわけです。


「古事記」の方は、大物主神の子であるオホタタネコ(三輪君、鴨君の祖先)の誕生の由来や、「三輪」という地名の起源を語っていて、典型的な神婚譚になっているのに対し、


「日本書紀」のヤマトトト姫の話では、子供は生まれてないし、離婚して捨てられるわ、ショックで怪我して死ぬわ、およそ神婚譚らしからぬ展開です。


また「古事記」の話の展開は、大筋で「日本書紀」と一致しますが、そこにモモソビメの出番はありませんから、

そういう不安定な存在を卑弥呼に当てるのは無理があるでしょう。

最近はあまり倭迹々日百襲姫命を卑弥呼にあてる説はなくなっているようです。


しかも箸墓は纒向遺跡の中にありますが、その中でも最大のものです。

時期的に纒向遺跡を崇神天皇の宮とする見方もあるので、箸墓はむしろ崇神天皇陵とする方が「ハツクニシラス天皇」にふさわしいという意見もあります。


纒向遺跡には箸墓に先行する「纒向型前方後円墳」、あるいは「纒向型前方後円墳丘墓」(古墳ではなく弥生墳丘墓とする見方)と呼ばれるお墓があり、

吉備系の弧文石や九州式の鏡や剣の副葬品が出ています。


一方、この墳丘墓は一定の中国の尺度に基づいて作られていて、その範囲は東は関東、中部、西は北部九州に及んでいて、「邪馬台国畿内説」の論拠となります。


この「纒向型前方後円墳」の名付け親の寺沢薫氏は、「邪馬台国畿内説」のお立場ですが、

一方ではこの原型を岡山県倉敷市の「楯築墳丘墓」(弥生時代)に求め、吉備を中心にする西日本の広域の連合国家を想定されているようです。

それだと博多湾貿易の範囲を考えると、まあまあ妥当な感じはします。

でも楯築墳丘墓は纒向型前方後円墳に含めない説もあり、まだまだ分からないことが多いのです。


楯築墳丘墓についてはこちら 



またその頃、畿内~瀬戸内の地域には戦争に備えるための高地性集落が見られるのですが、Wikipediaでは


高地性集落の分布は、弥生中期に中部瀬戸内と大阪湾岸に、弥生後期に近畿とその周辺部にほぼ限定されている。古墳時代前期には、西日本の広島・鳥取に、北陸の富山・石川・新潟に分布する。しかし、北部九州にはみられない集落である。


と説明されています。


つまりは弥生中期には西からの攻撃、後期には近畿の内部抗争、古墳時代前期はまさに四道将軍の伝承に対応していると思われます。


神武天皇と崇神天皇は重なる部分も多いのですが、単純に同一人物というわけではなく、

数世代にわたって、瀬戸内沿岸には北部九州からの脅威があり、

その後西日本の連合国家の中心に成立した三輪王権によって、畿内から各地方へ征討などがなされ、ヤマト国家の成立へ向かった歴史を「ハツクニシラス天皇」という人物に仮託して語ったことを、

神武天皇と崇神天皇に分化させたようにも思われます。


このあたりは考古学史料も多く、その分様々な見方が多いのですが、

これからもいろいろ出てくるので、とりあえず先に進もうと思います。


またのご訪問をお待ちしております。