ご訪問ありがとうございます。

前回は銅鐸の話で終わってしまいましたが、これを調べるというのはけっこうな作業量で^^;

野洲市の銅鐸博物館のHP及びNPO守山弥生遺跡研究会のHP には大変助けていただきました。最近の考古学はどんどん進化していて、本当に素晴らしい成果が上がっているので、昔のように本や論文を捜し歩いたりせずに、そういった知識と出会えるのは大変幸せなことです。

そこへタイムリーに先週の「ブラタモリ」が岡山つまり「吉備」!!

もしや古代史好きの皆様の中には、ご覧になった方も多いのでは?と思い、
今日はそこから話をすすめてまいりましょう。

まず、「ブラタモリ」で言っておりましたように、いわゆる桃太郎だとされるのは
大吉備津彦命なのですが

この方は、かの日子坐王と同じく「四道将軍」の一人なのです。

「四道将軍」はこの前のシリーズの「丹後の国の神様のはなし」でも触れているのですが、

まず、丹波道主命(「古事記」では日子坐王)は、丹波を平定に行くのですが、彼らはおそらく丹後国のもともとの丹波で古くから信仰されていた祖先神であり、
それがその勢力拡大とともに古代丹波国(丹波、丹後、但馬)に信仰圏を広げ

そこに浦島太郎など、いろいろな伝承が上塗りされて、現在ではよくわからなくなっているのではないかと考えるにいたりました。

つまり、日子坐王は大和朝廷の皇子というより、もっと古層の、丹波の土着の祖先神であろうと考えたわけです。

それが父、開化天皇ともども皇統譜に組み入れられているのは、
丹後半島が、出雲と越を結ぶ位置にあり、ここを押さえることがすなわち、
出雲の交易網を断ち、引いては出雲の国力をそぐ第一の拠点として、
重要視されたことに他ならないと思うからです。

つまり、大和朝廷が派遣した日子坐王たちが丹後を平定したのではなく、
すでに丹後を平定し支配していた日子坐王や丹波道主命を中心とした丹後政権を
大和朝廷の皇統譜と伝承に組み入れたのではないかと考えたわけです。

そして、そのために丹波政権の血を引くサホビメやヒバスヒメを垂仁天皇の皇后に迎えた。つまり婚姻による同盟関係を築いたとすれば、

サホビメが反乱で亡くなってから、またもや同じ丹後からの皇后を迎えるという展開も納得できると思います。

同様に越(北陸)に派遣された大彦命、その子供の武淳川別命は東方十二道に遣わされるのですが、この人についてみていきますと

埼玉県の行田氏出土の稲荷山鉄剣のヲワケノオミ系譜の初代はオホビコです。

父は第8代孝元天皇ですが、そのことは鉄剣には書かれていません。
あくまで初代がオホビコなのです。

これも、かつて越や東国に分布していた氏族の祖先伝承を、のちに大和朝廷が皇統譜に取り込んだと考えられます。

しかも、第10代の崇神天皇の皇后は大彦命の娘です。

いわゆるイリ王朝の時代に婚姻政策が行われていたという伝承も丹後と同じです。

すると大吉備津彦は、やはり欠史八代の第7代孝霊天皇の子であり、
イリヒコではないけれど、三輪山麓の纏向に都した垂仁天皇の次代、景行天皇も「古事記」では皇后イナビノオオイラツメの父は、一緒に吉備に派遣された弟の若日子建吉備津彦であるといいます。
(ヤマトタケルのおじいちゃんってことねー)

「ブラタモリ」では、天皇の皇子が吉備にいた政権を倒したという、
一般的な見解が述べられていただけでしたが、(それはそうです)

タモリさんたちが訪ねておられた楯築遺跡、これと大和朝廷との関係を考えれば、
大和朝廷と吉備は協力関係になければならず、しかも吉備の風習を大和側が受け入れないとならないほど吉備が強力!!そんな関係が見えてくるのです。

それゆえにわたしは、吉備は被征服者ではなく、同盟関係という見方を採用するのですが、

その前に「楯築遺跡」について、「ブラタモリ」を見ておられない方は、
こちらから覗いてくださいませ^^ →Wikipedia「楯築遺跡」

さて、「楯築遺跡」ですが、これは大きな墳丘墓です。
弥生時代のものなので「古墳」じゃないです。

厳密にいうと弥生時代後期(2世紀後半~3世紀前半)に造営された首長の墳丘墓で、双方中円形墳丘墓という変な形です̻
前方後円墳の四角のない方にもう一つ四角がついていて、
前方後円墳の原型だといわれています。すごいじゃん(ノ・ω・)ノオオオォォォ-!

すごいんです!
すごいのはそれだけではありません!

墳丘のあちこちから出土した土器片の多くが、
壺形土器、特殊器台・特殊壺の破片だといいます。

この特殊器台は何かというと、Wikipediaでは次のように説明されています。

特殊器台・特殊壺(とくしゅきだい・とくしゅつぼ)は、弥生時代の後期後葉に吉備地方で生まれ、華麗な文様を施し、丹で赤く塗るなどの装飾性に富んだ大きな筒型・壺型の土器で、首長の埋葬祭祀に使用された。これらの特殊土器類が発達し変遷して円筒埴輪の発生や成立に関係した。特殊器台型土器・特殊壺型土器とも言われる。

概要
特殊器台・特殊壺の出現は弥生時代中期以降で、後期に特に発達・普及するが、古墳時代前期には衰退する。この現象から特殊器台・特殊壺が、最古の前方後円墳はどれか、最古の前方後円墳はどこにあるか、を追求する有力な手がかりの一つになる。

つまり、古墳出現の手がかりとなるものなのですが、大和地方でも最古に分類されるあの箸墓古墳や葛本弁天塚古墳からこれが出土しているのです。



また、これらの古墳からは特殊器台型埴輪も出土しているのですが、

これについて、吉備の古墳に精通されておられる宇垣匡雅さんは
特殊器台は大和において製作されたものとみられるが、製作には吉備の工人が関与したと考えられ、工人が備中から大和に移動したとされます。
そして特殊器台形埴輪については胎土の特徴から、備前南部で製作され大和に搬入されたと判断できる、といわれるのです。

このように、古墳の出現と埴輪の誕生には吉備と大和の密接な協力関係が不可欠であり、「四道将軍」や「ブラタモリ」で出てきた吉備津神社の温羅伝承では解決できないということになります。

それなら、「四道将軍」は当時大和王権と協力関係にあった各地域の王権を
もっと後の時代になってから、征服伝承化したり、皇統譜と結び付けたり
あるいは婚姻関係があるようにしたりと変化させたものだと考える方が、

こういう事象を考えるにはいいのではないかと思うわけです。

さて、話は戻りますがこの楯築遺跡というか楯築墳丘墓、
Wikipediaによると
直径約43メートル、高さ4、5メートルの不整円形の主丘に北東・南西側にそれぞれ方形の突出部を持ち、現在確認されている突出部両端の全長は72メートルで同時期の弥生墳丘墓としては日本最大級である。
ということなのですが

これが吉備の首長のお墓だとするとかなりの権力です。

しかも箸墓古墳とは特殊器台を通じて大変密接なつながりを持ち
その箸墓の被葬者が「ヤマトトトビモモソビメ」
吉備津彦の同母姉妹であるということになります。

どうして誰も「邪馬台国=吉備」って言わないのかなぁ?

いや、わたしも「博多湾交易」とか考えると、当時の大陸との交易は北九州中心とみざるを得ないと思うので言わないんですが・・・

ヤマトトトビモモソビメ=卑弥呼という方々には、そこを考えてもらいたいと思ったりします。

わたしは邪馬台国の場所については、あまり断定すべきでないと思うのには
一つは「まだ何が出てくるかわからない」ということがあるのですが、

もう一つは画文帯神獣鏡の問題があって、これも大和中心に出土する鏡なのですが、これが福永伸哉さんによると、尾張・三河を中心とした三遠式銅鐸の地域に入っていかない。三角縁神獣鏡の古い形でも同じなのです。

福永さんは邪馬台国=大和説なので、ここが狗奴国だといわれるのですが
「倭姫巡幸」では元伊勢の移動ルートがやはり美濃と尾張の国境の湿地帯で終わっていて、東に行かない。つまり、これの分布と一致するのです。

わたしはここは三遠式銅鐸の中心となる政権があったと思っていまして、
近畿式銅鐸の王権は鏡の祭祀に切り替わっていくのですが、尾張はそうはならなかったという気がしていますが、それはさておき

この画文帯神獣鏡は、中国でも多数出土していて、「景初3年」銘のもあるし、三角縁神獣鏡より卑弥呼っぽいので、これの研究が進むと大和説もありかな…?みたいなところもありますが、

今のところ、大陸との交渉での北九州の優位性が覆せないので、そっちの方を持っているのです(ノ∀`)

そういう点でいえば、この吉備と大和の結びつきを考えた場合、
九州の王権が近畿式銅鐸の王権を傘下に入れようとと思えば、吉備の協力が不可欠のものであり、それゆえ、三輪王権ともいうべき初期大和朝廷は
古墳の築造をするうえで、吉備の葬送儀礼を大幅に取り入れていったのではないかと考えるのは、不自然ではないように思います。

しかもタモリさんが、見ていたあの石!
Wikipediaを引用しますとどうも特殊器台だけではなく、纏向遺跡とも共通するようなのです。

弧帯文石(弧帯石)
墳丘上には大正時代の初め頃まであった楯築神社に、代々伝世し、ご神体として神石(亀石)と呼ばれる全表面に毛糸の束をねじったような弧帯文様が刻まれた石が安置されていたが、現在はこの遺跡のそばの収蔵庫に祀られている。こちらは「伝世弧帯文石」と呼ばれる。 この弧帯文は、纏向遺跡の弧文円板と葬送儀礼で共通するといわれている。


こうしてみると、吉備は邪馬台国が大和にも勢力を拡大するために、協力以上の関係を築いていたとみることができるのですが、

では、なにゆえに邪馬台国が近畿に勢力を拡大しようとしたかというと

わたしはやはり出雲に対する経済封鎖が最終目的であったように思います。

当時の博多湾貿易では、大陸へ進出していたのは
西日本各地が依存していた北部九州の王権と
日本海側が依存していた出雲の王権でした。

北部九州の王権(邪馬台国)は、その交易圏であった吉備の協力を得て、
同じ交易圏にあった畿内の王権(畿内式銅鐸)を傘下に収め、
そこに邪馬台国の分派ともいうべき纏向王権を誕生させたのではないか?

これは東遷ではないのですが、邪馬台国の影響力としては大きく東に広がったことになります。

その纏向王権こそが「イリ王朝」ともいうべき崇神天皇の王権だったのです。

この王権は鏡の祭祀を推し進め、その中で丹波王権や越の王権と結びついていくことになります。

出雲と陸続きの吉備(実際に特殊器台は出雲でも使用されています。)
出雲の最大の交易の相手の越(越は翡翠の産地でした。)
そして、日本海交易の中継点の丹波(丹後半島)
こういった地域を押さえられると、出雲は交易での利益を生み出すことができなくなり、やがて衰退の時を迎えます。

崇神天皇の時に出雲フルネが討たれますが、彼を討ったのはまさに大吉備津彦その人でありました。

邪馬台国は吉備と連携することで、博多湾貿易を独占することができたのです。

しかし・・・時すでに遅く、出雲の王権が滅んだと同時に、福岡平野の大集落や纏向遺跡も解体に向かいます。

それは4世紀の初めに高句麗が南下し、帯方・楽浪郡が滅亡してしまい、
博多湾貿易そのものが解体してしまったからでした。

その後は、畿内にまた、新たな王権が生まれ、
それが大和朝廷として、南九州の狗奴国以外の西日本を納めていくことになります。

今日は久々に古代史に戻ったせいか、少し話のスケールが大きくなってしまいましたね。

次回からは、もう少しち密に参りましょう^^
またのご訪問をお待ちしています。

Wikipediaより
画文帯神獣鏡
日本、中国でも多数出土する。中国で3世紀に製作されたと思われるが、日本では5世紀後半の古墳から出土することがある。日本からは約60面出土している。畿内地域を中心に出土することや2世紀の末頃北部九州の銅矛、畿内や東海地域の銅鐸が姿を消し、画文帯神獣鏡が現れるのが特徴である。兵庫県姫路市四郷町の宮山古墳[1]、大和天神山古墳四面、三重県鳥羽市の伊勢湾に浮かぶ神島(かみしま)の八代神社収蔵の5世紀のものなどが出土しており、その同笵鏡は三重・愛知県下では、三重県多気郡明和町大字上村神崎山一号墳三面、愛知県岡崎市丸山町亀山二号墳一面、また、ほう製鏡(中国鏡を模して日本で製作された鏡)思われるものは名古屋市双子山古墳一面、奈良県橿原市新沢109号墳、河内郡川車塚(かわちこおりがわくるまづか)、江田船山古墳から出土している。三重県志摩市大王町波切の塚原古墳からも出土、その同笵鏡は稲荷山古墳の礫槨から出土。大阪府和泉市和泉黄金塚古墳から出土の鏡は、魏の景初三年(239)の銘をもつ。