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さて神亀元年(724年)、藤原氏の血を引く聖武天皇が即位し、口分田不足のため三世一身の法などが長屋王のもとで行われます。

このバックには元正上皇がおり、

房前もまた内臣として天皇と上皇を支える立場にいました。


そして、いよいよ奈良時代前期最大の政変である長屋王の変なのですが、


ざっくり説明しますと(コトバンクより引用)


奈良前期,天武天皇の孫で,高市 (たけち) 皇子の第1皇子である長屋王(684〜729)が謀反の疑いで自殺させられた事件。
長屋王は聖武天皇即位とともに左大臣となり藤原氏に対抗する勢力となった。729年,王は左道(邪道)を学び国家を傾けようとしているという密告により兵士に邸宅を囲まれ,聖武天皇の命で妻子とともに自殺。光明子立后をはかる藤原氏の陰謀の犠牲になったと考えられる。
(旺文社日本史事典三訂版「長屋王の変」)


という事件です。


ところがこの事件の10年ほど後のこと・・・


下級官人の大伴子虫が、

この事件を密告し下級貴族に昇進した宮処東人を斬り殺すという事件が起きます。

子虫はもともと長屋王に可愛がられていた家臣で、たまたま仕事の合間に囲碁をしていたときに「長屋王の変」の話になり、憤りのあまり東人を殺してしまったようなのですが、


「続日本紀」には東人の行為を「誣告」と記してあって、「長屋王の変」は正史で冤罪であったと認めています∑(OωO; )


「続日本紀」は797年の成立ですから、100年もたたずに藤原式家の政権下にあってもこういう見方がなされていたといえます。


いや、子虫には罰せられた形跡や記録がないので、この事件の当時(738)には、この斬殺は誣告に対する斬刑の規定に準じたものとして不問に付された可能性すらあります。


当時の官人層でも、冤罪はもはや公然の秘密であったのでしょう。


もともと長屋王は、聖武天皇が母の宮子を「大夫人」と呼ぶように出した勅を

大宝律令では皇太夫人と呼ぶ規定ですが、大夫人と言えば律令に違反し、皇太夫人と呼べば勅に違反しますが、どうすればいいのでしょう?

と上奏し、聖武天皇が勅を撤回するということがありました。


その後、安宿媛が基王を生むわけですが、翌年に橘(県犬養)三千代の一族の県犬養広刀自が安積親王を生み、同年に基王が亡くなると


橘三千代の母体である県犬養氏が外戚の地位を確立したり、

場合によっては長屋王家が皇位継承するということになってしまうという危機感が藤原氏に生じます。


そこで安宿媛を皇后にすることで、


※万一の時には皇后が政権を握る。

(これは飛鳥時代の女帝がすべて嫡流天皇の大后として、傍流天皇の後見から即位に至ったという事情を踏まえています。)

※もし今後安宿媛に男児が誕生すれば、皇后の子ならば「嫡子」として安積親王より優位になる。


という突破口を見出したのです。


ところが律令には皇后の規定はないけれど、その下の妃については皇族出身という規定があり、

継体天皇以降の血統主義的な皇位継承において、皇后は皇族出身であるというのは自明の理でした。


当然、これについては長屋王が反対することが予想されたのです。


また、長屋王家の子供のうち、変で亡くなったのが吉備内親王とその所生の膳夫王、桑田王、鉤取王のみで


不比等の次女長娥子ナガコが生んだ安宿王、黄文王、山背王は不問であることから、


事件が単に皇親勢力の巨頭であった長屋王の排斥だけでなく

皇孫とされ皇位継承権を有する膳夫王以下の王子と、母で元正天皇の同母妹の吉備内親王の抹殺が目的だったと考えられ、


じつは長屋王夫妻と王子たちは自殺したのではなく、兵によって殺されたと考える人もいるくらいです。


とにかく基王の死によって、藤原氏はそれを利用し、長屋王が基王を呪詛したという誣告を東人にさせ、愛児を亡くしたばかりの聖武天皇から長屋王逮捕の許可を得た、というのが真相だと思われますが、


そこには不比等の後妻の橘三千代を藤原氏側に留め置きたいという思惑もあったでしょう。


708年に即位した元明天皇から橘宿禰の氏姓を賜った県犬養三千代は、当時の内廷の中心的存在でした。


だいたい功績として新しい氏姓を賜うなどは「藤原鎌足」以来ですから、そのすごさが分かります。


当時の内廷の女性メンバーは


橘三千代が仕えた元明天皇の子で、養育にあたったとみられる文武天皇の同母姉妹の元正上皇と吉備内親王(長屋王妃)、


橘三千代の娘安宿媛(のちの光明皇后)と娘の阿倍内親王(のちの孝謙天皇)、


橘三千代の一族の県犬養広刀自と安積親王


ということですから、橘三千代の影響力が分かります。


橘三千代にとっては、基王と阿倍内親王は孫ですが、安積親王が即位しても外戚の地位は得られるので、

基王なき今はむしろ元正上皇の内意に沿った行動をとりかねず、

藤原氏にとっては難しい対応を迫られたのです。


そんな中で、藤原四子のうち、橘三千代の女婿であった房前ですが、長屋王の変ではどのような動きを見せたのでしょう?


じつは出てこないのです・・・😅💦💦


729年2月、「続日本紀」によると

東人らの密告を受けた政府は三関(不破、愛発、鈴鹿)を固守し、

式部卿藤原宇合が六衛府(衛門府、左右衛士府、左右兵衛府、中衛府)を率いて長屋王邸を囲むのですが、


六衛府で一番位が高い中衛府大将の房前は参加していません。


翌日、多治比県守ら新たに3人が参議に加わり、舎人・新田部親王以下武智麻呂らが長屋王糾問に赴くと言うときも、房前の動静は伝わりません。


また変のあとに

武智麻呂は大納言に

麻呂は宇合と並ぶ従三位

2年後には宇合と麻呂が揃って参議となり、


その一方で房前は従三位参議のままで、とくに昇叙はなく、年の離れた弟たちと並ぶことになります。


その後今度は、麻呂が管轄する左京職が
甲羅に「天王貴平知百年」(天皇の世は貴く平和で百年続く)との文字のある亀を献上し、天平への改元が行われます。

そして変から半年、8月に安宿媛は立后します。これが光明皇后です。
藤原氏はついに人臣初の皇后を輩出したのでした。


このあたりは


房前はほかの兄弟ともめることもなく、藤原四子政権はまとまっているように見えましたが、

このような記録から、20世紀末ごろからの学説は、

長屋王の変は、むしろ武智麻呂が主導権奪回のために起こしたもので、


内臣の房前は埒外におかれていたとも、橘三千代を通じて皇室内と深く関わるゆえに自ら参画しなかった言われます。(瀧浪貞子、渡辺久美、大山誠一、増尾伸一郎各氏)


そもそも元正天皇は嫡流中の嫡流、

もともとが聖武天皇の即位の先延ばしを図って即位したという経緯があります。


橘三千代は娘が立后するという陰謀と、恩人の元明天皇の遺児である元正天皇の意向との狭間で

おそらくはどちらに加担することなく、だんまりを決め込んでいたのでしょうが、


娘婿の房前も内臣として元正天皇と対立する道はとらなかったのではないでしょうか?


結局これ以降の房前は、年の離れた弟たちと肩を並べ、政権の中の発言力は相対的に落ちることになります。



そして737年4月、房前は兄弟に先んじて当時猛烈な勢いで広まっていた天然痘に倒れます。


ほかの3人が7月中旬から8月上旬に次々と罹患し、死亡したのは互いに見舞いに行き合ったためで、房前はほかの兄弟と接触が少なかったという木本好信さんの指摘もあります。


こういう流れからも、長屋王の変では房前は行動を起こさなかったという瀧浪貞子さんらの見解は支持できるように思います。


最終官位は正三位参議でしたが、聖武天皇によって大臣に準じた葬儀をすることとされました。

しかし家族(牟漏女王、永手ら)はそれを固辞したといい、


10月に至って武智麻呂と同じ正一位左大臣を追贈されます。

この時の贈位は武智麻呂、宇合、麻呂にはなく、

聖武天皇や元正上皇のはからいであったと考えられますが、この時の政府首班は長屋王の弟鈴鹿王と、橘三千代の子である橘諸兄でした。


こうして、藤原四子政権は天然痘のパンデミックの中であっという間に崩壊しました。


このパンデミックが長屋王の祟りということもささやかれますが、

光明皇后にはもうひとり、兄がいました。


それが橘三千代が先夫美努王との間に設けた葛城王こと橘諸兄でした。


ここからの藤原氏は不比等の孫の代になります。


次回からは房前の遺児である永手たちを中心に奈良時代後期に入りますので、房前編は今回で終了し、

次回はパンデミックについてお話ししますね。


長屋王については

ピグとものタクヤさんのブログに詳しいレポートがあり、こちら 


私も前に書きました のでよければご覧くださいませ。こちらは軽ーい話です💦💦



それでは次回からもよろしくお願いいたします。

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