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さあ、今回は草薙剣の再考です^^




まずこのブログでヤマトタケルについて書いたときの内容を整理してみましょう。
(詳しくはヤマトタケル 美夜受比売考 その3 草薙剣の謎 以下をご参照ください。)

1、クサナギには本来「獰猛な蛇」という意味があり、大蛇の尾から出たという伝承にふさわしい名であり、
よく言われる「もともとは天叢雲剣」という記述は「日本書紀」の注記にしかみえない。

2.ヤマトタケルが火難の時に草を薙ぎ払ったので「クサナギ剣になった」という伝承は
「日本書紀」の別伝にしか見えず、本来の伝承ではない可能性が高い。

3、草薙剣は天智天皇の時に熱田神宮から盗難にあい、そのまま宮中に留め置かれ、
熱田神宮には帰らなかった。しかし、弟の天武天皇の時に、天皇の病気の原因は草薙剣の祟りとされ、急きょ熱田神宮に返還された。

以上のような記述から、

草薙剣は本来尾張連氏の奉斎する神剣であったが、尾張氏が継体天皇の大和入りに際して、継体天皇の姻族として協力したために、皇室からも崇拝されるようになった。

それを、蘇我氏系の皇統に対抗するためのシンボルとして、天智天皇が盗難をきっかけに宮中に留め置き、神器として扱うが、

尾張氏側には神剣の喪失として不満があり、ついにそれが「祟り」という形で表面化し、剣は熱田神宮に戻されたが、神器の伝承は変えられずに残り、神器が尾張にあるという説明のために
ヤマトタケルが美夜受比売のもとに置いていったという物語が創作された。

という推測を立てました。そして傍証として
熱田神宮で神剣が帰ってきたことを闇の中でひそかに笑って喜ぶという「笑酔人(えようど)神事」が今も残っていることをご紹介しました。

さて、今回はこのようにヤマトタケルと切り離してしまった「草薙剣」を、そもそも八岐大蛇のいた出雲の国から見直してみたいと思います。

じつは、草薙剣については面白い記録が存在します。

江戸時代のものですが、熱田神宮の神官が恐れ多くもご神体の「草薙剣」を見てしまったという記録です ((((((ノ゚⊿゚)ノワワワ

Wikipedia天叢雲剣から引用します。わかりやすいように内容を段落分けしました。

江戸時代(五代将軍徳川綱吉時代)に熱田神宮の改修工事があった時(前述)、神剣が入った櫃が古くなったので、神剣を新しい櫃に移す際、4・5人の熱田大宮司社家の神官が神剣を盗み見たとの記録がある。

天野信景(名古屋藩士、国学者)の随筆『塩尻』によれば、神剣を取り出した関係者は数年のうちに咎めを受けたという。
梅宮大社の神職者で垂加神道の学者玉木正英(1671-1736年)「玉籤集』の裏書の記載は、
明治31年の『神器考証』(栗田寛著)や『三種の神器の考古学的検討』(後藤守一著)で、世に知られるようになった。

上述の著作によれば、神剣が祀られた土用殿内部は雲霧がたちこめていた。
木製の櫃(長さ五尺)を見つけて開けると、石の櫃が置かれていて間に赤土が詰めてあり、
それを開けると更に赤土が詰まっていて、真ん中にくり抜かれた楠の丸木があり黄金が敷かれていて、
その上に布に包まれた剣があった。

箱毎に錠があり、大宮司の秘伝の一つの鍵ですべてが開くという。布をほどいて剣を見ると、長さは2尺78寸(およそ85センチ)ほどで、刃先は菖蒲の葉に似ており、剣の中ほどは盛り上がっていて元から六寸(およそ18センチ)ほどは節立って魚の脊骨のようであり、全体的に白っぽく、錆はなかったとある。
この証言(記述)が正しければ、草薙剣は両刃の白銅剣となる。

なお神剣を見た大宮司は流罪となり、ほかの神官は祟りの病でことごとく亡くなり、幸い一人だけ難を免れた松岡正直という者が相伝したとの逸話も伝わっている。

ということですから、銅剣で菖蒲の葉のような形から広形ではなく中細形のように思います。
荒神谷の銅剣はすべて50㎝の長さであったのですが、それよりはかなり長いようです。
しかしながらスサノオノミコトが八岐大蛇を退治した剣(天羽羽斬)は「十握(とつか)剣」と言われているように、記紀神話には数振りの「十握剣」が登場することを思えば、実戦的でかつ神性のある剣として85㎝の剣が草薙剣として祀られているのは、そんなに違和感はありません。

わたしは、出雲で獰猛な大蛇(クサ・ナギ)の尾から出現した中細型の剣が「草薙剣」とされているのは、その形状からも否定できないと思います。

では、出雲の銅剣がなぜ尾張にあるのかというと、これは尾張氏の来歴を考えてみなければならないと思います。


尾張(連)氏は連姓でありながら、代々后妃を出していました。

まず、いわゆる「欠史八代」になるのですが、第5代孝昭天皇の皇后は
「日本書紀」によると尾張連祖瀛津世襲(オキツヨソ)の娘の世襲足媛(ヨソタラシヒメ)、
「古事記」尾張連祖奥津余曾の妹である余曾多本毘売(ヨソタホビメ)命とされています。

「欠史八代」については入門編 「欠史八代」を見ていただくとよいのですが、かりに鳥越憲三郎氏のように実在だとすると「葛城王朝」という事になり、たしかに孝昭天皇の宮も葛城にあると伝わっています。

この時代は、大和地方は弥生時代末期で、葛城には銅鐸も出土していますから、鏡の祭祀が大和に普及する以前の古い政権と考えれば、その姻戚に尾張氏が出てくるのは少し不思議です。

ところが「古事記」の「孝元記」には皇子ヒコフトオシノマコト命の妃の一人に
「尾張連等の祖意富那毘の妹、葛城高千那毘売」とみえ、尾張氏の拠点が葛城にあったことをうかがわせます。

太田亮氏は「姓氏家名大辞典」で
尾張氏はもともと葛城の高尾張地区が居住地であったとしています。
それがのちに尾張に移住し、ミヤズヒメの親の乎止与命から尾張国造になっているのです。

もし尾張氏が銅鐸を祀る氏族であったとすると、それは鏡による祭祀=邪馬台国の時代以前という事になり、出雲神話の時代に一致します。
そしてその頃、紀伊(和歌山県)が大国主命の亡命先であったのなら・・・

大阪府と奈良県と和歌山県の接するこの地域も出雲と何らかの関係があってとも考えられます。

出雲からもたらされた神剣を、尾張氏がずっと守り続けていたということは不思議ではない・・・

「草薙剣」はかなり有名な出雲王権の遺産であり、かつ継体天皇の大和入りの時も崇敬を受けたものであるとすれば、大和朝廷はぜひとも我がものにしたかった・・・それが天智天皇の時の盗難をきっかけに皇室へ移された動機なのではないでしょうか?

こうして「三種の神器」となった「草薙剣」は、天武天皇の代に祟り、熱田神宮に返され、
ヤマトタケルの佩刀であったとされました。

その直後、持統天皇は鏡と剣を奉じられて即位しますが、これが安徳天皇と共に西海に沈んだ宝刀だと思われます。その後朝廷は伊勢神宮より献上された剣を「草薙剣」とし、これが今も天皇のお側近くに置かれている宝剣だと思われます。

そもそも出雲は、九州北部の広矛と近畿地方の銅鐸を共に所持する勢力でした。
そこの象徴である銅剣を、天皇家は「神器」として扱いました。
もしかしたら「八尺瓊勾玉」も越からの宝玉かもしれません。

また、その「神器」には邪馬台国の祭祀を継承する「八咫鏡」も選ばれていました。

こういう伝承をさかのぼると、やはり出雲はかつて葦原の中つ国の支配者であり、
国譲りもまた、何らかの歴史を反映したのだなぁと思えてきます^^

これでヤマトタケルでは放置していた「草薙剣」の来歴を考えることができました。

つぎは加茂岩倉遺跡、いよいよ銅鐸の謎に迫りたいと思います