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ヤマトタケルの方は、美夜受比売や弟橘媛の登場で、佳境に入っていたので、なかなか途中で切れなくて突っ走ってしまい、9月に入門編を書いてから、もう2か月も経ってしまいました。

この前の入門編は初代の神武天皇と、10代目の崇神天皇が、実は同一人物かもしれないという話でしたが、
それならその間の2代目から9代目まではどうなるんだろう???という疑問がわいてきますよね。

実はその間の8代は、伝承の部分もあんまりなくて系譜だけが残っているという状態なので、昔から「欠史八代」と言われていました。

で、この「欠史八代」、だいたいどういう扱いを受けているかというと

1.バッサリ架空だと切り捨てられる。
2.有力な王の名前だけが伝わっている程度の価値はある。
3.崇神以前の大和にあった政権の系譜や都の場所が断片的に伝えられている。
4.史実(葛城王朝説)

と、まあ多彩に分かれますw

もう70年以上も前のことですからご存知ない方もおられると思いますが、戦前の歴史教育は天皇中心史観(皇国史観)、特に古代史は「古事記」「日本書紀」の記述がそのまま真実として教えられていました。
ヤマトタケルはもちろん、天孫降臨のような神話でさえ歴史だったのです。

そんな中で記紀の記述に疑問を呈したのが津田左右吉氏でしたが、昭和15年その著書が発禁処分になるなど、古代史については全く研究らしい研究は禁じられている状態でした。

ですから戦後、古代史の研究が自由になると、史学界がまず、記紀の否定から、特に、継体以前の伝承は、歴史的な資料としては検討を要するということになりました。

津田氏の研究は今日では批判されることも多いのですが、記紀の記述にはヤマトタケル伝承でも見てきたように、原資料を変えたり、何かを挿入したりと、当時の情勢で変えられた部分が多々あります。
今の研究家から見れば、津田氏の論説には誤った見方があったりするかもしれませんが、そんなことは医学でも、物理学でもあることでしょう。大切なのは内容ではなく、真実を追求する、そういう研究の姿勢なのだと思います。

そして、皇国史観は否定された戦後は、もう記紀の古い部分は信用できないという見方が、史学界を席巻していた時期がわりあい長く続いていました。
その頃は、「欠史八代」は、天皇家の歴史をより古く引き延ばすために造作された架空の天皇だとされていました。それが1.の説になります。

それに反発したのが1970年に発表された「神々と天皇の間」という鳥越憲三郎氏の「葛城王朝説」でした。
鳥越氏は神武天皇から開化天皇までの天皇の多くは畝傍~葛城という奈良盆地西部に宮都や陵墓が伝わることから、いわゆる三輪王朝に先立って葛城王朝が存在し、磯城県主氏や鴨氏などと姻戚関係を結んで、崇神以前に王権へと発展させていたという考え方で、記紀の記述には意味があるという主張でした。

これには、
◇他の時代の陵墓は、記紀の記述に近いところに、時代的に符合する古墳群がみられるのに対し、欠史八代の陵墓は自然丘陵らしきものや、新しいタイプの古墳が多い。
◇邪馬台国の時代に重なるが、その関連が明らかでない(特に近年は唐古・鍵遺跡、纏向遺跡など奈良盆地東部に弥生時代の大規模な都市国家が存在していたことが明らかになっていることの説明が付きにくいのです。)
◇埼玉県行田市出土の「稲荷山鉄剣」(例の「ワカタケル王」って書いてある剣ですね)の系譜の初代オホビコは孝元天皇の皇子のはずだが孝元天皇の記載はない。

等の批判があります。

こういったことから、欠史八代は「古事記」「日本書紀」の記述通りではないが。一部分は真実も伝わっているぐらいの見方もありますが、こういうとらえ方は得てして恣意的になってしまいがちで、
邪馬台国だという林屋辰三郎氏のような見解もあれば、大和王権ができる以前、天皇家が族長に過ぎなかった頃の記録だとする江戸時代の賀茂真淵以来の見方もあり、また崇神天皇の方が邪馬台国だとされたりします。
まさに百家争鳴の状態だと言えます。

わたしは、実のところあんまりこういうところ(邪馬台国とかも)足を踏み入れたくないのです。蟻地獄みたいなもので、どんどん深みにはまって、かといって定説など出しようがない命題だと思うのです。

ただ、ヤマトタケル伝承を通して見ると、倭姫命が祀っていた天照大神は、明らかに鏡がご神体です。ご本人(ご本神?)が三種の神器の八咫の鏡を
「此の鏡は専ら我が御魂と為(なし)て」とおっしゃっていますから、間違いはありません。
ですから、倭彦命・倭姫命が祀っていたのは「鏡」。
しかも倭彦命に殉死の記述がありますから、この2人が属していた崇神天皇の政権は、邪馬台国の系統につながっているようにおもいます。

ところが、この時点でこの政権が邪馬台国であれば畿内説の立場ですが、
もし大和に入る前に神武天皇のように九州にいて、吉備との連合によって大和入りし、ここに政権を立てたなら九州説(東遷説)ということになります。

なんといっても古墳時代が始まったばかりですから、弥生時代との境目が西暦何年とか言えないために、東遷する前か、後か、そこは難しいところです。

また、纏向遺跡にはそういうものは出てないのですが、唐古・鍵遺跡は銅鐸の破片が出ていて、また葛城地方の御所市でも銅鐸が出ているとなりますと
倭彦命や倭姫命とは異質の銅鐸祭祀族のクニが欠史八代の時代にあり、そこへ鏡祭祀族の「ミマキイリヒコ=崇神」が「入って」きたように思います。
しかも欠史八代最後の9代の開化天皇の皇子日子坐王から、銅鐸の一大集積地であった「安国造」(布多遅比売のご実家です)が出ているのです。
と、考えてはいるのです。

ところが、わたしの中にはもうひとつの考えがあって、先ほどの大彦命もそうなのですが、
欠史八代の後半の天皇から始まる氏族がたいへんまた有力な氏族が多いのです。和珥氏、吉備氏、葛城氏、蘇我氏などの外戚として勢力を振るった氏族がみな登場します。

⑤孝昭天皇皇子 天足彦國押人ミコト⇒和珥氏
⑦孝霊天皇皇子 大吉備津彦命⇒吉備氏(上道氏)
   同    稚武彦命⇒吉備氏
⑧孝元天皇皇子 大彦命⇒安倍氏、膳氏など7氏
   同    彦太忍信(ひこふつおしのまこと)命⇒武内宿禰(たけしうちのすくね)
         ⇒葛城氏、平群氏、蘇我氏、紀氏など26氏以上
⑨開化天皇皇子 「古事記」に日子坐王から長大な系譜があり、15氏以上
   同    (「古事記」武豊波豆羅和気王⇒忍海部造など5氏以上)

ですから系譜的には、開化天皇などは銅鐸圏の地域だと言えますが、
他の天皇ではそうはなりません。

ですから各氏族のご先祖さんを一つの氏族としてまとめるために作られた系譜とも考えられます。(とすると架空説ですか)

このように欠史八代は、それなりにいろいろと可能性を考えてみても、難しい問題です。邪馬台国が絡むので、よけいやっかいになるのかもしれません。

古代史の闇はまだまだ深いのです。