折原臨也について、天祥院英智について、そしてその愛について
折原臨也について浅いネットで触れた齟齬を、私の感覚を、『それでも良い。それもまた正しい』と言えるようになりたい。勝手に絶望して、斜めに構えて武装する必要がないことを今この手で証明したい。
このツイートをしたとき、私は文章を書こうと決めた。
私は現在、あんさんぶるスターズという作品に傾倒しており、今日も今日とて稚拙ながらもせっせと自分の考えを言語化していた。
そこで私はデュラララ!!の折原臨也に対する感情を思い出した。
折原臨也に対して何かを思うとき、当時思ったときは私はネットの右も左も分からなかったときだった。私はきっと折原臨也という人間を愛していた。けれどネットのすぐ目につくところには彼を気軽に馬鹿にするような言葉や茶化すような言葉、反対にかっこいい、イケメン、イケボという表面への賛辞が溢れかえっていた。私が感じたこと・それに近いことは見当たらず、ただただ踏み躙られた。
おまえは間違っている、と言われているような話だった。
もう少し、私が深く知ろうとすればまた変わったことかもしれない。私のネットの使い方が悪かったのだ。
だけれど好きなものをそのまま好きということは難しい。人に合わせ、傷つかないように予防線を張って、得た感情を隠す必要がある、ということを学んでしまった。
それはきっと必要なことであったかもしれないが、私の愛した存在をネットでも隠すことをどうにも最近悲しく思うような感情がある。
なぜそのような感情が出てきたか。
答えは天祥院英智だった。
私は彼に対して「愛」という感情を覚えた。彼に対して理解したい、真摯的でありたいという感情を持った。
そのときのことだ。少し調べ物をしようと彼の名前を検索し、彼を嫌うものが嫌って当然だというものがいくつもヒットすることに危機感とデジャヴを覚えた。
無論、これは『違う』話である。
時代も、コンテンツを触れている人間も、話している内容も、何もかもが違う話である。
だけれど、同じような感情を持ったのもまた私の感情である。
怖かった。
否定されるのが、表面的に判断されてしまうことが、そして何よりそれによって、私の感情や意見は間違いだった、そぐわないものだったから言ってはならない、と思うことがとても怖かった。
今も、怖い。
だけれど、作品の楽しみ方に正解・不正解もない。言ってしまえば私はただのいち消費者にすぎないのだ。すべて個人の感想であり、そこには正解も間違いもない。そこにあるのはエンターテイメントによって心を動かされた一個人だ。それに気付き、言語化と納得ができたのはつい最近だ。
ならば愛そう。嘘偽りない言葉で、私の愛を言葉にしよう。
私の言葉は誰かを救うことはないかもしれないけれど、少なくとも私を救ってくれるのだから。
そして愛とは何かを探っていくのもまた、あんさんぶるスターズの主題でもあるのだから。