①資本の限界効率とは何か

 

 ケインズの資本の限界効率金利の分離が、金融政策を中心に据える新古典派経済学に対する反論になります。

 すなわち、資本の限界効率金利を切り分け、そして、資本の限界効率を上げるための政策は金利政策ではなく、財政政策であるという理論で、はじめて、金利政策を中心に据える新古典派への反論となり得たのです。

 新古典派経済学では「資本の限界効率金利」は同じもので、「資本の限界効率」も金利の概念に含まれます。

 そして、資本の限界効率(投資のプラス要因)と融資金利(投資のマイナス要因)はしばしば混同され、限界効率を上げる政策は、それらは政府支出に関わる政策ですが、必然として同時に金利を上げるとされ、クラウディングアウト効果などの理論が生まれる原因になりました。

 ケインズは、ほとんど、クラウディングアウト理論を否定するために「資本の限界効率」と「金利」の分離を主張したと言っても過言ではありません。

 実際、経済的現象を詳細に分析して見れば、新古典派の言うような金利を重視する理論にならないという指摘が、ケインズ経済学の理論です。

 「資本の限界効率」は、投資家が投資に対して期待する将来の収益状態または収益期待のことであり、現在の収益状態のことではありません。これは一般理論で繰り返し語られています。

 資本財がその寿命を通じて生産する生産物の売上から運転費用を差し引いたものを見込み収益と呼びます。

 見込み収益の計算のもとになるものとして、資本資産 (固定資産) の供給価格があります。(資本資産の購入費は「見込み収益の計算」に含まれます。)

 この供給価格は、景気状況によって変動します。他に、見込み収益には、物価、賃金、消費性向の変化への予想などが影響します。

 つまり、「資本の限界効率」=「見込み収益」、そして、「見込み収益=売上‐運転費用‐資本資産 (固定資産) の供給価格」となります。

 「金利」はこうした「資本の限界効率」とは別のところにあって、「資本の限界効率」から分け前を分捕ろうとする追撃者として活動して行くものであり、資本の限界効率の必然として生まれるものではありません。

 また、もしある種類の資本に対し、競争相手による同種の投資が増えたら、資本の限界効率は減少します。

 その理由の一つには、同種の資本供給が増えると競争相手が増え、競争によって見込み収益は下がるからで、もう一つには一般にその種の資本製造設備に需要圧力がかかって、資本資産 (固定資産) の供給価格が上がるからです。

 ケインズは、この後者の要因のほうが、短期的な均衡に達するときには重要であり長期になるほど、前者の要因の比重がそれに取って代わるようになると言っています。

 また、ケインズは、それぞれの種類の資本について、限界効率がある値に低下するためには、その期間内に社会全体の投資がどれだけ増える必要があるかを示すようなグラフを作れると言っています。

 さらに様々な種類の資本についてそうしたグラフをとりまとめれば、総投資の大きさと、資本全般の限界効率とを関連づけたグラフが作れるとも言っています

 また、当期の実際の投資額は、もはや限界効率が現在の金利を超えるような有望な種類の固定資産(生産設備)が残されていないところまで増える、言い換えると、投資額は資本の限界効率が市場金利に等しくなるところまで増える、と言っています。

 ここではじめて、「金利」が、「資本の限界効率」を相殺する相手として登場します。

 しかし、「金利」が「資本の限界効率」と同等となるまでは、依然として、投資のプラスの動機である「資本の限界効率」が、投資のマイナスの動機である「金利」に勝ることで、投資の増加が続きます。

 つまり、「資本の限界効率」>「金利」である限り、投資の増加が続き、景気は上昇傾向を保つのです。

 すなわち、「資本の限界効率」が上がっていれば、「金利」の上昇が起ころうとも、「金利」が一意的に景気動向を決定するということはないということです。

 これは、古典派経済学者のヒックスがケインズモデルと詐称して発表をしたIS‐LM分析に対する、ケインズ自身による反論の要点です。

 ところが、日本の大学の経済学部では、今でも堂々とケインズモデルと詐称してIS‐LM分析」が教えられているのは驚愕です。

 あくまでも、投資の動機は「資本の限界効率‐金利」であり、「金利」単独ではないのです。

 投資家は、政府が景気を上げるための減税や公共投資などの財政政策を行っている場合、その段階では、そのことによって資本の限界効率が分かっていたとしても、(つまり、収益の期待が持てたとしても)、金利の動向は分かりません。

 金利の情報は、(利益を分け合う債権者の動向を探るという意味で)どこか別のところから持ってこなければならないと、ケインズは言っています。

 そしてそれが出来て初めて、資産を「資本化」して、その資産の価値を評価できるようになります。

 つまり金利は、資本の限界効率が与えられているときにおいてそれとは別の要因として、外部から、投資がどこまで進むかというポイントを決めるものというわけです。

 ケインズは、ケインズの言う「資本の限界効率」と、フィッシャーの言う「費用に対する収益率」とはまったく同じものだと言っています。フィッシャーは、「費用に対する収益率」について、「(収益‐あらゆる費用)>金利」のときに投資が行われると説明しています。

 将来の収益と、将来の見込み費用の変化への期待が、資本の限界効率(投資家の収益期待)を決定します。

 資本の限界効率を、主に現在の資本設備による収益をもとに考えるというのは、現在に影響するような変わりゆく未来が存在しない、静的な状態の場合にしか成立しません。それは、今日と明日の理論的な結びつきを壊してしまうという結果をもたらします。

 そして、ケインズは、金利ですら、ほとんど現在の現象と言って構わないと言っています。

 そして、また、「資本の限界効率「金利」と同じ地位に貶めれば、既存の収支の分析は、将来の予測に関する重要な配慮からすべて切り離されてしまうことになると言っています。

 将来の収益の変化をもたらすものは、次のようなものがあります。

 今日生産された設備からの製品は、その設備の寿命の間ずっと、その後生産された設備からの製品と競争しなくてはなりません。

 新しい設備からの製品は、賃金や運転資金も低くて済むかも知れず、技術も改善しているかもれず、するとその製品の価格は下がり、生産量はその産出の価格が適切な低い水準に下がるまで増えます。

 さらに、あらゆる製品がもっと安く生産されるようになれば、新旧の設備から得られる事業家の利潤(名目値)も下がります。

 そうした発展があり得るものとして予想されているなら、あるいは考えられなくもないと思われているだけでも、今日資本の限界効率(投資家の収益期待)は、その分だけ下がります。

 これらは供給過剰の状態そのものですが、供給過剰はデフレそのものでもあります。デフレは資本の限界効率を下げす。

 だから、デフレがやって来ると予想されたら投資家は投資を抑えるのです。

 このように、技術革新は常に良いものだと思われていますが、技術革新は、その投資家本人のものではなく、他の投資家のものである場合が多いので、デフレ要因となり、デフレは資本の限界効率を下げます。

 しかし、人類は技術革新で進歩して来ました。このジレンマをどのように分かち合い解決して来たかというと、その答えはハッキリしています。それは、敗者に対する財政政策であり、つまり、低所得者や貧困層に対する減税であり、医療費や生活費の給付であり、公共投資などによる雇用の創出です。

 つまり、敗者の救済であり、所得再分配政策です。

 政府がそれらの敗者の救済を行うならば、はじめて技術革新正当化されるのです。

 逆に、技術革新が行われているときに、敗者が放置されるようなことが起これば、階級的格差が拡大し、国民の大多数は貧困化して行きます。

 

 

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